令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
“天下分け目の戦い”
関ケ原合戦を左右するプロローグをテーマに、期間限定開催
岐阜県は、織田信長が天下布武を掲げた地、豊臣秀吉が墨俣一夜城で出世の足掛かりとした地、そして、徳川家康が関ケ原の戦いで戦国を終結させた地であり、数多くの戦国・武将観光資源を有する「戦国のメインステージ」です。
戦国・武将観光の中核拠点として2020年10月にオープンした「岐阜関ケ原古戦場記念館」(以下「記念館」)では、2024年7月13日より、濃尾平野で繰り広げられ関ケ原合戦本戦に大きな影響を与えた前哨戦や、美濃各地での局地戦をテーマとした夏季企画展を開催します。
企画展では、前哨戦の様子を描いた「関ヶ原合戦絵巻」のほか、参戦武将が所用したと伝わる武具甲冑、局地戦の舞台となった城の絵図など貴重な展示物を通して当時の戦いの様子を体感いただけます。また、期間中は関連企画として山本浩樹(やまもとひろき)氏の講演会や、記念館学芸員による展示解説も開催します。
記念館夏季企画展概要
1)夏季企画展「関ケ原合戦の前哨戦-美濃・尾張の攻防-」
〇展示期間 7月13日(土)~9月1日(日) ※ 記念館の休館日は除く
〇会場 記念館2階展示室2、3
〇主な展示物
・関ヶ原合戦絵巻(小野市立好古館蔵)
・伝 一柳 直盛(ひとつやなぎ なおもり) 所用 白羅紗地二重貫紋陣羽織(小野市立好古館蔵)
・伝 高木 貞利(たかぎ さだとし) 所用 具足(海津市歴史民俗資料館蔵)
・伝 杉浦 重勝(すぎうら しげかつ) 所用 長旗(羽島市歴史民俗資料館蔵)
・苗木城縄張之図(中津川市苗木遠山史料館蔵)
・濃州郡上城攻図(飛騨高山まちの博物館蔵)
・徳川家康書状(慶長5年(1600年)9月3日付)(当館蔵)
関ヶ原合戦絵巻(小野市立好古館蔵)
2)講演会「関ヶ原合戦と美濃・尾張」(関ケ原研究会情報発信事業)
○日時 8月4日(日)13:30~15:00(開場 13:00)
○会場 記念館3階セミナールーム
○講師 山本 浩樹氏
○内容 美濃・尾張をめぐる東西両軍の戦略と実際の攻防を紹介します
○定員 100名(事前申込・先着順)
○参加費 無料 ※別途入館料が必要です
○申込方法 記念館公式HPの専用ページから申し込み
講師紹介
山本 浩樹氏(龍谷大学文学部教授)
1962 年岐阜県生まれ。
広島大学大学院文学研究科博士課程満期取得退学。
国立岐阜工業高等専門学校教授を経て、現在、龍谷大学文学部教授。
元・愛知県史編さん委員会中世2・織豊部会専門委員。
(単著)『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(吉川弘文館、2007 年)
(共著)『愛知県史 通史編3 中世2・織豊』(愛知県、2018 年)他
3)記念館学芸員による列品スライド解説
○日時 ①7月28日(日)13:30~14:00 / ②8月18日(日)13:30~14:00
○会場 記念館3階セミナールーム
○参加費 無料 ※別途入館料が必要です
○参加方法 当日開始時間までに会場に入場(事前申込不要)
岐阜関ケ原古戦場記念館について
■関ケ原の戦いを五感で楽しむ
― 見て、触って、肌で感じる戦国のメインステージ ―
①関ケ原の戦いを体験|「グラウンド・ビジョン」「シアター」
1階 シアター
日本中を巻き込んだ関ケ原の戦いを俯瞰する「グラウンド・ビジョン」や、風や振動、光と音の演出であたかも合戦当日の関ケ原にまぎれ込んだかのような映像体験ができる「シアター」で、関ケ原の戦いを臨場感たっぷりに再現します。
②歴史に触れる|「展示室」「戦国体験コーナー」
2階 戦国体験コーナー
館内では関ケ原の戦いの発端から終結までを実物資料等を交えて紹介しています。2024年3月には、動く合戦図屏風デジタルアート「関ヶ原群像図屏風」も展示を開始しました。本物そっくりの武器に触れたり、陣羽織を着て戦国武将になりきり写真撮影を楽しめる体験コーナーも人気です。
③展望室
5階 展望室
360度全面ガラス張りの5階展望室からは現在の関ケ原を一望でき、展示で触れた合戦当時の景色と今を重ね合わせることができます。
■古戦場・史跡巡り
記念館で触れた数々の武将たちの戦いの跡を実際に現地で体感することができます。関ケ原を代表する七武将の物語を辿るウォーキングコースなどもあり、各武将の陣地から戦場を見下ろすことで、当時の彼らが見た景色を望むことができます。
最新技術を駆使した展示を見るだけでなく、実際に自身の足で歩き、目で見て体感できることも、関ケ原古戦場の魅力の一つです。
■施設概要
〇住所 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55
〇電話 0584-47-6070
〇アクセス JR東海道本線関ヶ原駅より徒歩10分
〇設立 令和2年10月21日
〇館長 小和田 哲男(おわだ・てつお)
〇運営 岐阜県
〇開館時間 9:30~17:00(入館は16:30まで)
〇休館日 毎週月曜 ※祝日の場合は翌平日、12/29~1/3
〇料金
<大人>500円
<大学生/高校生>300円
<中学生以下>無料
※団体料金、年間パスポートあり
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
小早川が見た、天下分け目の地
小早川秀秋が陣を置いた場所が松尾山。
麓の駐車場から徒歩40分程度で登頂できます。山頂は、古戦場を眼下に見下ろせる絶景ポイントです。
春には、やわらかな気候に包まれながら、夏には森林浴も兼ねたちょっとした登山気分を味わいながら、秋であれば色づいた木々とさわやかな風の中、ハイキング楽しむことができます。冬には、雪化粧をした関ケ原古戦場を一望。四季折々に、関ケ原合戦の様相を最も深く感じることのできる場所が、ここ松尾山・小早川秀秋陣跡なのかもしれません。
関ケ原では、日本の歴史上避けて通れない大きな“天下分け目の戦”が二度ありました。
672年、大海人皇子と大友皇子による、日本最大の内乱「壬申の乱」。
そして1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」。
この二度の戦がなければ、今の日本はガラリと変わっていたかもしれません。
関ケ原合戦の様子 再現
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020~この国の原点の風景が息づく~「関ケ原古戦場グランドデザイン(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/5571800
春の三大火祭り「左義長まつり」について
織田信長自ら踊り出た「左義長まつり」
左義長の起源・いわれ
平安時代に宮中で、毬杖・毬打(ぎっちょう・ぎちょう)と呼ばれる道具を使用して行う打毬(だきゅう:注1)と言う正月のめでたい遊戯がありました。
左義長はこの打毬で破損した毬杖を、清涼殿(注2)の東庭で青竹を束ね立てたものに結び、さらに扇子や短冊などを吊るし、陰陽師(おんみょうじ)が謡いはやしながらこれを焼く行事が起源とされ、この毬杖を3つ結んだことから各書物には、三毬杖・三鞠打・三木張、散鬼打、などと記され、しだいに左義長と呼ばれるようになったと考えられます。
現在でも正月15日前後に、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、 ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で、正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事として行われ、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないなどと言われています。
全国的には1月に左義長を行っている地域が多く、近江八幡の左義長まつりも江戸時代には1月の14日・15日に執り行われていたようですが、明治時代に入ってからは、太陽暦の採用に伴い3月に変更され、昭和40年代からは3月14・15日に近い土日曜日に開催されるようになりました。
注意1
大陸伝来のもの。紅白の毬を先がヘラになった毬杖で掬って自分の組の毬門に早く投げ入れた方を勝ちとするポロに似たもの。
注意2
清涼殿(せいりょうでん):平安京内裏の殿舎の一つで天皇の常の居所。
近江八幡の左義長まつり
近江八幡の左義長は元来、安土城下で行われていたもので、城主であった織田信長自らも踊り出たと伝えられています。
織田信長亡き後、八幡城下に移住してきた人々は、既に4月に行われていた八幡まつりに参加を申し入れましたが、松明の奉火場所が無く、また新参とのことで断られたため、これに対して、安土で行われていた左義長まつりを始めたことが起源とされているとも伝えられています。
近年の左義長まつりには、旧城下町の各町から13基が奉納されていますが、過去には中止されたり縮小することもあったようです。八幡開町から江戸初期頃までの左義長に関しての資料はありませんが、八幡町史では、宝永2年(1705年)まで行われ、同3年以降、34年間休んだという記録があり、町中残らず参加、以後毎年開催されるようになったのが元文5年(1740年)と記されています。
他にも、寛延元年(1748年)朝鮮通信使来幡につき中止、安永8年(1779年)左義長29基が奉納、天保5年(1834年)米穀貴重のため禁酒にて行う、慶応4年(1868年)維新騒動のため休止、昭和3年御大典を祝い31基奉納 等々、左義長まつりも時代を反映していたことが分かります。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 近江八幡春の三大火祭り ~「織田信長も華美な衣装で踊り出た『左義長まつり』 平成最後の祭りは2019年(亥年)3月16日(土)、17(日) に開催!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5802237
「関ヶ原合戦での島津氏と北郷氏」
【都城島津伝承館】
都城島津邸 邸内施設のご案内
剣道場
慶応3年築の建物といわれています。『明治百年人物誌』の渡辺甲介の項によると、「明治12年に島津邸に道場を設立し剣道を指南す」とあります。芳井崎に邸宅をつくるとき、移設してきたと思われます。床が低くなっており、釘が上から打たれていないのが特徴です。石蔵に対し、板蔵と呼ばれ、炭などを保管していました。
石蔵
「都城島津家日誌」によると、昭和5年11月5日「石造米倉庫棟上ゲヲナス」とあります。12月29日に竣工。後には、道路拡により解体した農芸館の収蔵品(民具)が収納してありました。
厩(農芸館)
昭和27年の建築。馬小屋として利用されていました。
御門
昭和10年、追加注文で建築されたものです。都城島津家の家紋入りの軒瓦があるのが特徴です。
外蔵
明治15年4月、120円で古土蔵(明治5年築)を購入し、移築したものです。2階に、都城市に寄贈した古文書・甲冑等が収蔵されていました。
日本庭園
昭和10年に鹿児島の庭園師に依頼した記録があります。昭和28年、本宅増築の時、庭も改造したと思われます。
南側の高木は、昭和天皇御宿泊のとき、警護及び目隠しのため移植されました。池には鯉やスッポンが生息し、鴨などの渡り鳥も飛来します。水源は湧水ですが、涸れたことがありません。
一角に毘沙門天(=多門天、四天王の一。北方世界を守護)があり、これは、廃藩後に家臣であった北郷資秀がもらい受けていたものです。
明治45年2月23日、島津邸内に移されました。肥後椿は、龍峯寺墓地から移植されたものです。
社
都城島津家の先祖が祀られていたものです。昭和10年にこの場所に移転し、9月30日に遷宮祭が行われました。伊勢神宮正殿と同じ神明造となっています。島津家では、毎年、春と秋に御霊祭を行っていました。
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