令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
美しさと機能性が融合した日本の甲冑を紹介する「甲冑の美学」、
馬とともに生きた武士の感性を紹介する「馬とともに」。
”もののふの備え”を共通テーマにした2展を同時期開催します。
朱塗啄木糸威具足 徳川義直(尾張家初代)所用 江戸時代 17世紀 / 黒塗桐紋鞍・鐙 伊勢駿河守貞雅作 徳川家康所用 桃山時代~江戸時代 16~17世紀 ともに徳川美術館蔵
【夏季特別展 もののふの備え 甲冑の美学】
古今東西の鎧のなかでも、日本の甲冑は美しさ華やかさを重視して作られた特異な鎧です。平安時代に登場する大鎧は、戦闘に用いる武具であるにもかかわらず、王朝装束の「かさねの色目」の影響を受け、色彩豊かな威糸で装飾されました。
また戦国期の甲冑は、徒歩戦のために機能性を追求して構造がシンプルになる一方、戦場で目立ち、あるいは武運を祈るため、個性的で奇抜なデザインが取り込まれることもありました。これら装飾性豊かな日本の甲冑美を紹介するとともに、江戸時代以降、さかんに行われた中世武具の考証、復古にも焦点を当てます。
朱塗啄木糸威具足 徳川義直(尾張家初代)所用 江戸時代 17世紀 徳川美術館蔵
銀箔置白糸威具足 松平忠吉(徳川家康四男)所用 桃山時代 16世紀 徳川美術館蔵
長烏帽子形兜 加藤清正所用 紀伊徳川家伝来 桃山時代 16世紀 徳川美術館蔵
平治物語絵巻 六波羅行幸の巻 今村随学筆 江戸時代 天明元年(1781) 徳川美術館蔵
▼甲冑の美学 作品リスト(案)
№ 作品名・作者 所有者・伝来など 時代 世紀〈年号〉展示期間・所蔵者
【夏季特別展 もののふの備え 馬とともに】
馬は古来より人の生活と文化に深く関わり、中世からの武家社会ではとくに軍馬として重用されました。軍事権を「兵馬の権」・武芸一般を「弓馬の道」と言うように、馬を扱うことは武士の必須の嗜みであり、優れた馬は、武威・武芸の象徴として武士の身分格式を示す存在となりました。
こうして武家風俗と密接に結びついた馬は、その気高い姿が武士たちに愛好され、多様な美術工芸品のモチーフにも表されます。また、人馬を繋ぐ馬具は時代や用途によって変化し、近世には華やかな装飾性が取り入れられて発展しました。本展では、馬と人がともに生きた歴史について、武家社会と馬の関わりを中心に紐解いていきます。
紫壇製「翁澤」置物 伊勢貞門作 徳川慶勝(尾張家14代)所用 江戸時代 19世紀
徳川美術館蔵
轡 銘 天下一藤原美次 市口伊予守 徳川家康所用 桃山~江戸時代 16~17世紀
徳川美術館蔵
調馬図屏風 六曲一双 尾張徳川家伝来 岡谷家寄贈 江戸時代 17世紀
(展示:右隻7/27~8/13・左隻8/14~9/16)
▼馬とともに 作品リスト(案)
№ 作品名・作者 所有者・伝来など 時代 世紀〈年号〉展示期間・所蔵者
会期
2024年7月27日(土)~9月16日(月・祝)
前期日程:7月27日(土)~8月13日(火)/ 後期日程:8月14日(水)~9月16日(月・祝)
※一部の作品は作品保護の観点から、展示替えまたは巻き替えを行います。
ジャンル
〔甲冑の美学〕甲冑・武具・装束・文書
〔馬とともに〕馬具・絵画・工芸・文書
時代
〔甲冑の美学〕古墳時代 5~6世紀 - 現代
〔馬とともに〕北宋時代12~13世紀 - 江戸時代19世紀
作品数
〔甲冑の美学〕91件
〔馬とともに〕52件
展示構成
〔甲冑の美学〕
1.古式の武装
2.大鎧、腹巻(現:胴丸)の登場
3.戦国 当世具足
4.太平の江戸時代と甲冑
5.式正の大鎧
6.中世甲冑の復古と考証
〔馬とともに〕
1.戦と馬
2.江戸の武家と馬
3.美術のなかの馬
4.人と馬をつなぐ馬具
関連企画
夏季特別展「甲冑の美学」関連企画
記念講演会「日本甲冑の特質-機能性・装飾性・象徴性-」
講 師:佐藤寛介氏(東京国立博物館 学芸企画部企画課 特別室長)
日 時:8月4日(日)午後1時~午後3時
会 場:講堂
定 員:80名(既に満席)
受講料:無料(但し入館料は必要)
夏休み子ども企画 もののふの備え
小・中学生を対象に展覧会をわかりやすく紹介。楽しく鑑賞するためのワークシートを配布し、スタンプラリーやクイズを実施します。
期 間:7月27日(土)~9月1日(日)
参加費:無料
黒門
徳川美術館 外観
名品コレクション第1展示室
名品コレクション第3展示室
名品コレクション第4展示室
徳川美術館 本館展示室
≪徳川美術館 概要≫
名古屋市(東区徳川町)にあり、徳川家康から尾張徳川家初代の徳川義直(家康9男)が譲り受けた遺品を中核に、江戸時代を通じて御三家筆頭の大名家に受け継がれてきた名品と、その後の収集品から成る1万件を超えたコレクションを有する美術館です。
「源氏物語絵巻」や「初音の調度」をはじめとする国宝9件、重要文化財に指定される絵画・陶磁器・染織品など59件、「短刀 銘 吉光 名物 後藤藤四郎」など1000振に及ぶ刀剣類など、質量ともに充実した日本文化の発信地です。
徳川美術館では、日本の伝統に育まれた極上の名品にいつでも出会えます。
■入館チケット
■所在地とアクセス
〒461-0023 愛知県名古屋市東区徳川町1017
・JR中央本線「大曽根」駅下車、南口より徒歩8分
・市バス・名鉄バス 基幹2系統「徳川園新出来」下車、徒歩3分
・名古屋観光ルートバスメーグル「徳川園・徳川美術館・蓬左文庫」下車すぐ
・美術館南側に無料駐車場17台あり
■開館時間と休館日
10:00~17:00(最終入館16:30)
月曜日は休館(祝日の場合は直後の平日)
徳川美術館
〒461-0023 名古屋市東区徳川町1017
電 話:052-935-6262(月曜日を除く10:00~17:00)
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
南部藩総鎮守、櫛引八幡宮。
亭亭と空を差す杉に護られた静寂の空間で、
ひとびとの祈りに寄り添い、佇む。
御祭神
御本社・御祭神
八幡大神(ハチマンオオカミ)-別奉称 誉田別尊(ホンダワケノミコト)
脇宮御祭神
天照皇大神(アマテラススメオオカミ) 天津児屋根神(アマツコヤネノカミ)
未社・摂社御祭神
大国主神 (オオクニヌシノカミ)
建御名方神 (タケミナカタノカミ)
惶根神 (カシコネノカミ)
伊弉冉神 (イザナミノカミ)
水波能賣神 (ミズハノメノカミ)
白山比神 (シラヤマヒメノカミ)
素盞雄神 (スサノオノカミ)
猿田彦神 (サルタヒコノカミ)
倉稲霊神 (ウガノミタマノカミ)
武甕槌神 (タケミカヅチノカミ)
伊弉諾神 (イザナギノカミ)
鳴雷神 (ナルイカツチノカミ)
生保馬神 (イクヤスマノカミ)
泥土煮神 (ウヒジニノカミ)
火産霊神 (ホムスビノカミ)
大山祗神 (オオヤマズミノカミ)
境内案内
※右回りでご参拝ください。
9月23日~9月25日まで櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。
秋祭りは1年の中で1番大きなお祭りです。24日は流鏑馬や伝統芸能の奉納もあります。
皆さまの御参拝を心よりお待ち申し上げております。
櫛引八幡宮の草創
櫛引八幡宮は南部家初代光行公の草創と伝えられる。
南部家文書(八戸根城南部家・『八戸家系』、『八戸家傳記』)によると、
文治5年平泉合戦(1189年)に戦功をたてた光行公は源頼朝から糠部郡(ぬかのぶのこおり、 岩手県北部・青森県東部の広大な地域)を拝領し建久2年(1191年)に入部、 後に家士を遣わして甲斐南部郷の八幡宮御神体を奉持せしめ、霊地をトして櫛引村に 宮社を造営し
武運長久を祈ったという。
「櫛引八幡宮縁起旧記」によれば、このとき遣わされた家臣とは津島平次郎で、
平次郎は宮地が決まるまで六戸の瀧ノ沢村に仮宮を営んで奉祭した。
また、甲斐から別当僧の 宥鑁(ゆうばん)が供奉し、別当普門院の祖となったという。
津島平次郎の子孫に当たる 滝沢家は八幡宮の鍵守として、普門院とともに代々祭礼を取り仕切った。
また、『櫛引八幡縁起』には、櫛引村に大同年間(806~810)に坂上田村麻呂が祀った 八幡宮の小社があり、同神同体であるので瀧ノ沢の仮宮からこの地に遷座したとある。
以後、 櫛引八幡宮と称し、南部の総鎮守となったのである。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~ 南部一之宮 櫛引八幡宮 ~「本日から25日まで、櫛引八幡宮秋季例大祭が執り行われます。(その1)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4921083
奈良・春日大社の鎧兜と現存甲胄の双壁をなす
国宝の「赤糸縅鎧兜」 櫛引八幡宮 所蔵
櫛引八幡宮は、鎌倉時代より南部藩(青森県南部・岩手県北部)の総鎮守として、多くの人々に尊崇されてきました。現在の社殿は南部重直が慶安元年(1648に)建立したものであり、また、所蔵の国宝・赤糸威鎧をはじめとした宝物、国指定重要文化財の御本殿など、八幡宮全体が文化財となっています。
境内の国宝館には、国宝の「赤糸縅鎧兜」が所蔵されており、これは別名「菊一文字の鎧兜」と呼ばれ、奈良・春日大社の鎧兜と現存甲胄の双壁をなすと言われています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「櫛引八幡宮の国宝と本殿の彫刻に匠の技を見る!(その2)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4926609
櫛引八幡宮は、盛岡藩の総鎮守
深い祈り
旅の途中で八幡様へ「道中、感動以外何も起こらないようにお守りください」
櫛引八幡宮は、盛岡藩の総鎮守としてさかえた神社で、青森県八戸市の西方郊外に位置します。
本殿など現在の各社殿は、正保二年~慶安元年(一六四五~八)に盛岡藩の直営で造営が行われた。 三間社流造で、各部を彫刻と極彩色で飾った華やかな意匠をもつ本殿や、東日本で類例の少ない春日造社殿の末社春日社本殿(前号にてご紹介)をはじめとして、同時代の建物が群としてのこっていることが大変に貴重です。
秋季例大祭はクライマックスへ…
やがて櫛引八幡神宮に静けさが戻り、いつしか夜の帳がおり、参詣の人々の朝を迎える
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と昔話(その3)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4931072
櫛引八幡宮の建築のご紹介と流鏑馬
国の重要文化財 櫛引八幡宮 本殿
奥州藤原氏討伐の戦功により糠部郡(ぬかのぶのこおり)を賜った南部光行が、甲斐国の八幡大明神を六戸に勧請し、貞応元年(1222)に四戸の櫛引村に社殿を造営し遷宮したのが始まりとされ、南部一之宮として多くの信仰を集めてきた八幡宮。
本殿は、江戸時代前期の社殿形式を伝える貴重な遺構として、国の重要文化財に指定されました。国宝・赤糸威鎧(あかいとおどしよろい)、国宝・白糸威褄取鎧(しろいとおどしつまどりよろい)をはじめとする宝物や建築装飾など、多くの文化財を所蔵しています。また、境内の「明治記念館」は、青森県に現存する最古の洋風建築として知られています。
奉納神事 流鏑馬
八戸根城南部 第四代師行公が、天下泰平・武運長久・領内安穏・子孫繁栄を祈願して奉納したのが、創始と伝えられ、現在も秋の例大祭で行われます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~ 「櫛引八幡宮の建築のご紹介と流鏑馬について(その4)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4936982
南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝~建築と工芸~
灯りに映し出された黄金色の輝き、木のぬくもりを感じる南部一之宮・櫛引八幡宮の
「国宝 御正門」
天明八年(1788)、幕府巡見使に随行した古川古松軒はその旅行記『東遊雑記』に、
「八戸より一里半西南に八幡村あり。この所に古跡の八幡宮の社塔あり、1039石御領主南部候よりの御寄付あり。この社に宝物数多にて、右の内に新羅三郎義光公の甲胄あり。惣金の銅物にてあたりも輝くばかりなり…
噺し伝えにもかく黄金のみに制せし甲胄あること聞かず。ゆえあるべし。外にも3領あり、よき甲胄なり。太刀も多く、餝りも念の入りし拵えなり。宝物の数かずありて真物のよきものばかり揃いし所は、江戸を出でしより当八幡宮の宝物第一にて、世にめずらしき物を一目せしことなりし。」
と記し、絶賛している。
国宝 赤糸威鎧 (あかいとおどしよろい)
兜・大袖付附唐櫃 鎌倉時代
大袖と兜に菊一文字の飾金物があり、
「菊一文字の鎧兜」としてあまりにも有名であります。
鎌倉末期の方式になる典型的な鎧でほとんどあますところなく装飾された菊籬金物の意匠は精妙をきわめ、技法もまた峻勁緻密であって、鎌倉時代金工芸術の特色を最もよく発揮しており、
春日大社の「赤糸威鎧(竹に雀虎金物付)」とならんで、装飾金物の豪華な点において現存甲胄の双璧と称されています。
国宝 白糸威褄取鎧 (しろいとおどしつまどりよろい)
兜・大袖付附唐櫃 南北朝時代
紫・薄紫・黄・萌黄・紅糸をもって褄取りを施した白糸の威毛は気品に満ち、全体の形姿も端正で、南北朝時代武将の心ばえがしのばれる名品であります。
現存鎧中大形の部類に属するもので、作技も優れ、保存もよく、南北朝時代の代表的な鎧とされています。
南部信光公が後村上天皇から拝領したものと伝えられています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020「南部一之宮・櫛引八幡宮の国宝~建築と工芸~(その5)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4942462
日本の伝統と文化を継承
櫛引八幡宮では一年間を通していろいろなお祭りが執り行われます。 お祭りは時代を超えた日本文化の結晶であり、伝統・文化を継承させる場でもあります。
秋季大祭
前夜祭:【旧暦】8月14日 【新暦】9月23日
例大祭:【旧暦】8月15日 【新暦】9月24日
馬場洗:【旧暦】8月16日 【新暦】9月25日
櫛引八幡宮では一年間を通していろいろなお祭り
3日間にわたる櫛引八幡宮最重要のおまつりです。
1年間で最大のおまつりであり、神事武芸 流鏑馬・弓道大会・少年相撲大会・文芸大会の他、各種演芸会・奉納会が行われるとともに、お祓いを受ける方やご参拝する方々で賑わいます。
余滴
一戸から九戸まで戸(へ)の付く地名の由来
青森県東部から岩手県北部にかけて一戸から九戸という大変に珍しい数字に戸(へ)の付く地名があります。その由来について簡単にご紹介します。
馬の木戸(きど)説
鎌倉時代のこと源頼朝は、南部氏を甲斐の国(山梨県)から糠部(ぬかのぶ)という地に転封しました。その地の環境から南部氏は領内の各地に牧場をつくり、軍馬を生産したのでした。自然と人々が集まり近くには集落ができました。数字と戸(へ)の付く地名は、元々は牧場の木戸に付けられた番号であったという説です。
柵戸(きのへ)説
奈良・平安時代のことです。蝦夷征伐にやってきた軍隊の駐屯基地では、周辺に柵を巡らして食糧を生産し自給自足で戦っていたようです(当時は、想像するに補給が困難なのと、戦いは人海戦術で長期戦だったのでしょうかね~)。
この柵のことを柵戸といって、それぞれに番号を付けていたものが、地名となったという説です。因みに一戸から七戸までの町村の距離は何と、計ったように約20㎞になります(恐らく、牧場として管理し易いように均等割に計画されたものでしようか?)。
ただし、四戸については当時の細長い地形のせいか現存していませんが(本当にそれだけなのかな~、病室などの4という番号は縁起を担いで使われないのと同じ理由ということも考えられないだろうか?)とは言えその名残として人名の姓だけは残っているようです。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~南部一之宮 櫛引八幡宮~「日本の伝統と文化を継承(最終話)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4947411/
豪華絢爛 八戸三社大祭
豪華絢爛 日本一の山車絵巻「八戸三社大祭」
藩政時代より受け継がれる「八戸三社大祭」。 古式ゆかしい神社行列と、雅やかなお囃子とともに現れる華麗な山車が、 八戸の短い夏を熱く、美しく彩ります。
八戸三社大祭とは
およそ300年の歴史と伝統を誇る、国の重要無形民俗文化財「八戸三社大祭」(はちのへさんしゃたいさい)。2016年12月1日には、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」への登録が決定しました。
一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と、神話や歌舞伎等を題材に各山車組が制作した27台の山車の合同運行。高さ10m・幅8mにもなる山車が通るたび、沿道では大きな歓声があがります。また、ライトアップされた山車が夜空に浮かび上がり、幻想的な雰囲気を醸し出す夜の運行では、昼とはまた違った雰囲気に。
毎年7月31日から8月4日までの5日間、八戸のまちが独特の熱気に包まれ、期間中の人出は100万人以上。青森県には青森ねぶた祭・弘前ねぷたまつり・五所川原立佞武多など津軽地方を中心に有名な夏祭りが多いですが、それらに全くひけをとらない活気と迫力を誇るお祭りです。一足早く始まる八戸三社大祭を見てから、津軽のお祭りを巡るのもオススメです。
「八戸三社大祭」山車のご紹介
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「 八戸三社大祭 豪華絢爛 日本一の山車絵巻『前編 』~みどころ ~」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2360064
「八戸三社大祭」一番の見どころ
「八戸三社大祭」一番の見どころは、おがみ神社・長者山新羅神社・神明宮の三神社の神輿行列と、神話や歌舞伎等を題材に各山車組が制作した27台の山車の合同運行です。お見逃しなく!
八戸歴史探訪
縄文と南部のロマン薫るまち
縄文時代から江戸時代、そして現在に至るまで、 八戸はこの地方の拠点として栄えてきました。 その歴史や文化は現在の八戸にも脈々と受け継がれています。
八戸の縄文文化
およそ2万年前、旧石器時代から人が住んでいたと言われる八戸地方。縄文時代には、縄文時代後期を代表する是川遺跡や風張遺跡などから発掘された数多くの出土品、大規模な集落跡が示すとおり、多くの人々が暮らし、繁栄したと考えられています。
八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館 住所:青森県八戸市大字是川字横山1
国宝「合掌土偶」をはじめとする芸術性の高い出土品が多いことも特徴。出土品は八戸市埋蔵文化財センター是川縄文館に展示され、古の記憶を現在に伝えています。
八戸に伝わる「義経北行伝説」
八戸市内には、平氏打倒の立役者・源義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも、伝説として市民に受け継がれています。
義経北行伝説とは
平安時代末期、時の権力者であった平氏打倒の最大の功労者・源義経。その後、兄・源頼朝と対立し、奥州藤原氏を頼って平泉に落ち延びたものの、頼朝の追及から逃れることができず、自刃したと言われています。
その源義経が、実は平泉から密かに脱出して海路八戸に入り、北海道、樺太、モンゴルへと移って、成吉思汗(チンギス・ハーン)になったという「義経北行伝説」。八戸市内には、義経が立ち寄ったと言われる場所が古くから伝えられており、800年以上経った現在でも市民に受け継がれています。
義経夫人が使用したと言われている手鏡
おがみ神社
ひそかに北へ逃れた義経は、八戸に上陸し市内の高館に住んだといわれている。元久年間(1205)義経婦人(京の久我大臣の姫君)が亡くなり京ヶ崎に葬り、報霊大明神とあがめられた。おがみ神社がその場所だといわれており、義経夫人が使用したと言われている手鏡八戸の義経伝説の記録「類家稲荷大明神縁起」(るいけいなりだいみょうじんえんぎ)が所蔵されている。
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