令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
新企画「地震のほしをさぐる」、8月1日(木)から開催!
「地震のほしをさぐる」
日本科学未来館(略称:未来館 館長:浅川智恵子)は、研究開発の「いま」を見せるシリーズ「Mirai can NOW(ミライキャンナウ)」の第7弾として、特別企画「地震のほしをさぐる ―地球深部探査船「ちきゅう」再び東北沖7,000mの深部へ!」を8月1日(木)~9月9日(月)に開催します。
地球のダイナミックな活動のひとつ、地震。本企画では、地震のメカニズムの解明に貢献する探査船「ちきゅう」に着目し、世界最高レベルの科学掘削能力を持つ「ちきゅう」の特徴を実物や模型などで展示します。また東北地方太平洋沖地震の震源域での掘削調査で得られた研究成果や、今年9月から実施予定の新たな研究航海を紹介します。
「ちきゅう」に乗船する研究者やクルーにも注目し、謎の多い地震のメカニズムの解明に挑む人々に迫ります。
「ちきゅう」は、海底を掘り進めることで堆積物や岩石などを含む地質試料(コアサンプル)を直接採取することができる探査船です。
船を運用する海洋研究開発機構(JAMSTEC)は、東北地方太平洋沖地震発生の翌2012年に「ちきゅう」で震源域の迅速な掘削調査を行い、巨大地震について研究を進めてきました。そして今年9月、まだ解明されていない謎に迫るため再び東北沖で調査航海を実施します。
会場には、海底掘削ツールの先端部分である「ドリルビット」の実物や、「ちきゅう」の100分の1スケールの模型などを展示します。また、「ちきゅう」の大きさを感じてもらうため、船底のプロペラ推進器「アジマススラスタ」(外径約4.6メートル)の実物大グラフィックも展示。
船体の中央にそびえ立つ「デリック」と呼ばれる巨大なタワー(掘削やぐら)の画像を背景に、調査研究に挑む「ちきゅう」のクルーになりきって写真を撮ることができるフォトブースも設置します。さらに、会場内と常設展示フロアをめぐるワークシートを用意。
海洋科学掘削に加えて、人工衛星や惑星探査などの「地球・宇宙をさぐる科学技術」について楽しみながら学ぶことができます。
期間中の8月31日(土)には、「ちきゅう」で東北地方太平洋沖地震の研究を進めてきた研究者と、今年9月から実施予定の新たな掘削調査に挑むメンバーをお招きし、来館者とともに応援メッセージを届けるイベントを開催します。詳細は今後、ホームページでお知らせします。
開催概要
タイトル
地震のほしをさぐる
―地球深部探査船「ちきゅう」再び東北沖7,000mの深部へ!
開催期間
2024年8月1日(木)~9月9日(月) ※9月3日(火)は休館
会場
日本科学未来館 1階 シンボルゾーン
参加費
無料 ※常設展や特別展、ドームシアターの鑑賞は別途料金が必要
主催
日本科学未来館
協力
国立研究開発法人海洋研究開発機構(JAMSTEC)
展示のポイント
1.世界最高の科学掘削能力を誇る「ちきゅう」を体感する
「ちきゅう」の全景 (Ⓒ海洋研究開発機構(JAMSTEC))
掘削ツールの先端に取り付けられる「ドリルビット」や、100分の1サイズの「ちきゅう」の模型などから、「ちきゅう」の仕組みを紹介します。また、潮流や強風に負けずに船の位置や姿勢を保つためのプロペラ推進器「アジマススラスタ」の実物大グラフィックも展示。
外径約4.6メートルもある装置の大きさを目の当たりにすることで、世界最大の科学掘削船のスケールを実感できます。さらに、「ちきゅう」の大きな特徴でもある、船体の中央にそびえ立つ「デリック」(掘削やぐら)と呼ばれる巨大なタワーの画像を背景に写真を撮ることができるフォトブースも設置。ヘルメットやキャプテン帽を被り、調査研究に挑む「ちきゅう」のクルーになりきって記念撮影をすることができます。
2.これまでの調査結果と新たなミッションを知る
東北地方太平洋沖地震発生から3日後の2011年3月14日、海洋研究開発機構(JAMSTEC)は震源域の緊急調査を開始しました。会場では、2012年の「ちきゅう」での迅速な掘削調査からわかった巨大地震の全容や、「ちきゅう」が今年9月から新たに挑む調査航海の内容を紹介します。
3.巨大探査船の中で働く人々に迫る
「ちきゅう」には、研究者だけでなく、掘削作業や船の運航、乗組員の生活を支えるさまざまなクルーが乗船します。巨大探査船内で一丸となり航海に挑む人々をパネル展示で紹介するとともに、クルーたちへの質問や応援メッセージなどを投稿できるコーナーも設けます。
「地球・宇宙をさぐる科学技術」を学ぶワークシート
海底を掘削することで地球を探査する「ちきゅう」だけでなく、人工衛星や惑星探査など、世界にはさまざまな「地球・宇宙をさぐる科学技術」があります。本企画の会期中、1階の会場内と、5階の常設展示フロアで紹介している「地球・宇宙をさぐる科学技術」をめぐるワークシートを特別に配布。さまざまな「地球・宇宙をさぐる科学技術」を楽しみながら学ぶことができます。
応援イベント詳細
「ちきゅう」で東北地方太平洋沖地震の研究を進めてきた研究者と、今年9月から実施予定の新たな掘削調査に挑むメンバーをお招きし、「ちきゅう」の取り組みについて紹介いただくとともに、来館者と応援メッセージを届けるイベントを開催します。
開催日時
2024年8月31日(土)
会場
日本科学未来館 1階 コミュニケーションロビー
ゲスト
廣瀬丈洋 氏(国立研究開発法人海洋研究開発機構 高知コア研究所 所長)ほか
「ちきゅう」のアジマススラスタ (Ⓒ海洋研究開発機構(JAMSTEC))
「ちきゅう」の100分の1スケール模型 (Ⓒ海洋研究開発機構(JAMSTEC))
Mirai can NOW(ミライキャンナウ)とは
未来館では、未来を考える “入り口” として、「Life(ライフ)」、「Society(ソサイエティ)」、「Earth(アース)」、「Frontier(フロンティア)」の4つのテーマを設定しました。「Mirai can Now」は、未来にむけた研究開発や、その実現に取り組む人々の「いま」に触れ、体験するシリーズ企画。今回は第7弾として「Frontier」をテーマとしています。
日本科学未来館
〒135-0064 東京都江東区青海2-3-6
電話:03-3570-9151 FAX:03-3570-9150
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
東日本大震災『ケセン』シリーズ
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
岩手県陸前高田市 冰上山(ひかみざん)防火、雨乞い、豊作、大漁を祈願する山
冰上山とは
冰上山は、北上山地の南東部に位置する標高874.7mの山です。山火事が起きてもこの山に火の手が近づくと火が鎮まったという故事が山名の由来といわれます。山頂部には西の御殿、中の御殿、東の御殿がまつられ、防火の神、雨乞いの山とされ、豊作と大漁を祈願する対象としても地元の人々の信心を集めてきました。
三陸ジオパークのジオサイトに指定
およそ4億5千万年前にできた氷上花こう岩という日本最古級の岩石からできており、地球の歴史が刻まれた重要な場所として三陸ジオパークのジオサイトに指定されています。代表的な登山口である玉山高原は藤原三代による平泉黄金文化を支えたとされる玉山金山跡が残されています。
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その1)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8824030
復興のシンボル 「奇跡の一本松」
粛然と佇立する一本松を残し津波に飲み込まれた7万本の高田松原。全ての日本人がそのやる瀬なさと愛おしさに涙した。
高田松原とは
高田松原は、かつて岩手県陸前高田市気仙町にあった松原で、白砂青松(はくしゃせいしょう)の景観として有名でした。江戸時代の寛文7年(1667年)、高田の豪商によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6,200本のクロマツが植えられたのが始まりで、その後、享保年間(1716年 - 1736年)に増林が行われ、以来、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、景勝の一つとして大勢の観光客を集めました。
明治29年(1896年)の明治三陸津波、昭和8年(1933年)の昭和三陸津波、(昭和35年(1960年)のチリ地震津波では防潮林として市街地への被害を防いできましたが、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では、10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅しました。1本の松が倒れずに残り、この松は震災直後から復興のシンボルと捉えられ、「奇跡の一本松」などと通称されるようになりました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その2)~ 気仙三十三観音巡り ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8824318
黄金の国ケセンをめぐる伝統文化
陸前高田市 鹿踊り 名前の由来は仙台藩公からの賛辞
行山流山口派柿内沢鹿踊とは
気仙には、3流派ある鹿踊りのうち、行山流と金津流の2派が伝わります。中でも多いのが、伊達氏ゆかりの行山流です。「山口派」は東磐井郡大原の山口喜左エ門を師匠とします。
行山流は、藩公にこの踊りを披露した時、「仰山なり」と賛辞を賜ったことが名称の由来と伝えられます。「行山」以外に、「仰山」「迎山」「行参」などの表記が見られます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その3)~ 気仙三十三観音巡りと伝統文化 ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8870583
気仙船大工と気仙大工
気仙丸
気仙船大工衆の技術を結集した千石船を復元
気仙丸とは
「気仙丸(35t)」は、気仙船大工衆が技術の粋を集めて建造した千石船の復元船です。
平成3年(1991年)12月完成の「気仙丸」は全長18m、幅5.8m、船の高さ5m。帆柱は17m、木綿製の16反の帆は。畳85枚分に相当します。
気仙船匠会が製作を担当し、船尾の曲線美、船体の木組みや木彫など随所に伝統の技が光ります。完成から半年後、釜石市を主会場に開かれた「三陸・海の博覧会」に協賛出品し、「ジャパンエキスポ大賞」を受賞しました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その4)気仙郡住田町 ~ 伝統技術と木質新素材の融合により2020年「日本建築学会作品選奨」受賞 ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8893957
住田町と気仙大工は切っても切れぬ関係だった。
「あの日」忘れまい、県警が震災当時の活動写真展開催、陸前高田市にて
県警本部が東日本大震災後、沿岸被災地で活動した様子を伝える警察活動写真展が23日、陸前高田市気仙町の道の駅「高田松原」出入り口の地域情報スペースで始まりました。市内で開催するのは今回が初めて。震災発生から9年4カ月が経過し、全国的に記憶の風化が進む中、津波の教訓を・・・
この度、記事の見出しが…えっ!#住田町?…続いてえっ!#ケセン大工?…というこの二つのキーワードが目に飛び込んだ時、いきなり私の中でまざまざとトラウマの如き映像が湧き上がるのを禁じ得ませんでした。と同時に、一方で何故か対極にある意外な景色が部分的に綯い交ぜの記憶として残っているのも確かな事なのです。
ケセンと申せばあの気仙地方、三陸沿岸部そしてあの東日本大震災・・・
2011年3月11日、14時46分、東日本大震災が発生した日です。震源地は三陸沖 でしたが、被災地の面積は南北500km.東西200kmに及び、これはマグニチュード9と言う我が国にとっも、観測史上最大の地震だったのです。
あの時は、日本人の誰しもが当事者でなくとも何か手助けしなければ…と、多くのボランティアの方々が現地へと全国から集まりましたよね〜。当時、私は大学での定年退職後、すぐに半官半民の仕事に就き、山形市にいて執務中でした。私のデスクからはガラス越しに、山形城址裏手の濠を隔た先には高木の樹林帯があり、あの地震の瞬間、その森から空が真っ黒になる程、大小の鳥達がぎゃ~ぎゃ〜と阿鼻叫喚の様にて鳴き叫びながらフワーッと垂直に湧き上がったかと思えば、空中で乱高下を繰り返したのち、やがてすべてが視界から消え失せたのです。
カラス類はその後1年間位は殆ど見かけることがありませんでした。(その後の話では被災地が、異常な数のカラスが増えたとか…?)大変不吉な予感を覚えたものです!
あの日、山形市の勤務先にいた私ですが、嘗て経験したことも無かった空前絶後の激しい揺れには、その強度ばかりか、持続時間の長かったことに、同室に居た誰しもが単なる地震とは異なる、もしかすると天変地異でも発生したのか…と感じたようで誰かが「何だこれはっ…?」と叫びましたが、すぐに室内灯が切れ、TVも映らなくなり、私が持つ携帯のみが作動して、ラジオニュース速報が入り、三陸沖が震源地であることと、同時に間もなく襲来する大津波警報を伝えていました。
山形県は、歴史的に大きな災害は少ない土地柄ですが、やはりそれなりの非日常的暮らしが待ち受けていました。先ずは当日から2~3日はTVも無く真っ暗闇の夜を過ごし、全ての店も閉まり、開店しても食品ダナは空っぽ !ヤマザキのパンが当分は手に入らず、2~ 3週間に亘るかなりの飢えを体験。一番困ったのは殆どの社員はマイカー通勤なので、(実は公共交通機関がバスのみで、路線不足と利用者不足の間引き運転の為)ガソリンが足りず、朝5時頃から7時給油開始まで延々とスタンド前に行列を作るのです。しかも、お一人様10Lまでの配給制度でしたが、8時頃行っても売切れ御免の札が掛かるのです。
それは、私がつくばの国立研究機関から山形県に移り住んで19年目のことでした。
地震発生3ヶ月後、目にした現地沿岸部の様相
山形市は被災地となった宮城県や福島県とは背中合わせに隣接するにも拘らず、仕事上、土日しか動けず、現地に行けたのはあの日から3ヶ月後のことでした。それでも大義名分は日本インテリア学会、関東支部プロジェクトの為の被災者状況調査役を仰せつかったからでした。
時間が許す限り、相馬市の手前から田野畑村までの範囲ですが、それはご存知のように沿岸部はリアス式海岸特有の複雑怪奇な地形にて幾つもの半島、岬を辿り、街中は瓦礫の山と化して、通行不能カ所も幾度びか行きつ戻りつを繰り返すため、一日500~600km走行は当たり前でした。
街中通過の途上では、目にする汎ゆるシーンは映画やアニメでさえも表現できない、究極の破壊です。 沿道には半分に分断された運転席のみの車、或いは上下左右から叩きのめされた車、ひっくり返った車、ぺシャンコに積み重なった乗用車。果ては街中の瓦礫に埋もれたビルの屋上には巨大な漁船が乗り揚げていたり、誰一人歩く姿を見かけない死に絶えた町でした。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その5)気仙地方と気仙大工・・・【寄稿文】日原もとこ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8950059
気仙の色は何色かな?
黄金の国ケセン
気仙(けせん)は、伝統文化がいまも豊かに息づく土地です。
歴史的には「黄金の国ジパング」の名の元となった金の産出地としても知られ、 信仰、祭礼、踊り、建築物や美術工芸などを今に伝えています。
柳田國男が絶賛した地としても知られ、宮沢賢治の創作の源の一つでもありました。
現在は、大船渡市、陸前高田市、住田町の2市1町に分かれていますが、 文化財の宝庫として、今もケセンは「黄金の国」と呼ぶにふさわしいエリアです。
空を仰ぐための場所
来訪者に、天井を切り取る穴の理由を尋ねられた。「空の鏡なんですよ。水に映る空を見て天を仰ぎ、亡き人に思いをはせてほしいと願いを込めたそうです」。
設計者に聞いたまま説明すると、その人もなるほどと言って空を見上げた。群青の下に沈黙が訪れる。相手もきっと祈っていたのだろう。
(道の駅・高田松原、12月)撮影:鈴木英里(東海新報社)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その6)気仙に命の色を訪ねて・・・
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/8987994
気仙の色は「森川海と人」の色
山あいの〝二人三脚〟
住田の地形を表現する時に「山あい」という言葉がよく使われる。風がぴたりとやんだ午後、その風景が水田にくっきりと描かれた。山と農地、自然と生活の営みが寄り添う、初夏ならではの〝二人三脚〟の美しさ。田植えを終え、周囲の草刈り作業に励む住民の心をいやしていた。(住田町下有住、5月)撮影:佐藤 壮(東海新報社)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その7)気仙に「森川海と人」の色を訪ねて・・・
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9011547
気仙の色は未来を目指す記憶の色
地域に根付く〝美しさ〟
大雨による増水で流されるたびに、地元住民たちが架け直している住田町下有住の松日橋。3日、今年2度目となる架け直しが行われ、住民たちが声と力を合わせて復旧作業に汗を流した。地元の住民たちが作業に励み、それを見守る町民の様子は地域に根付いた光景で、美しさすら感じられる。(5月3日)撮影:清水辰彦(東海新報社)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その8)気仙に「記憶の色」を訪ねて~Ⅰ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9051723
気仙に「記憶の色」を訪ねて~Ⅱ~
仲良しメジロ
陸前高田市横田町の気仙川沿いにある桜並木。満開の時期が過ぎて葉桜も多くなった頃、一本の枝に、つがいらしい2羽のメジロが寄り添うように座っていた。小さな体を丸め、互いに羽や頭部を優しくついばむしぐさがたまらなくかわいい。花の蜜のように甘〜いカップルに、幸せを分けてもらった。(4月)撮影:阿部仁志(東海新報社)
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その9)気仙に「記憶の色」を訪ねて~Ⅱ~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9055070
陸奥の人々が観音信仰に寄せる特別な想いとは
慈母観音に思い重ね…亡き娘を思って、2017年大船渡市末崎町の麟祥寺に寄進
同町出身の山本さん(仙台市在住)
早速ですが、東北地方の六県とは何県であり、マップの上でどの様なレイアウトになっているか正確に答えられる人は手を挙げて〜(笑) 「ハーイ! それは岩手、青森、秋田、新潟、山形、宮城かな…?あっ…福島県もでした〜」・・・それは ペケです。第一、それでは7県になります。追加の福島県はOK、新潟は中部地方になります。・・・「え〜っウソ〜っ!新潟県は山形県に隣接してますよ〜それに新潟県は関東地方よりも北でしょう?」・・・これは今の初等教育で用いられている資料です。・・・下図の八地方区分図 をご覧下さい。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020 黄金の国ジパング『ケセン』(その10)~気仙三十三観音巡り~自然の中にも観音様の御姿が!(Ⅰ)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9068167
観音様は水の化身
「地・水・火・風・空」は仏教における自然を構成する五大元素とされています。
実は、皆様ご存知の観音様は水の化身になられるのです・・・
大船渡市三陸町越喜来 観音様の水飲み場
観音様は水の化身
心眼を開き、さらに凝らして眺めて下さい。水の化身である観音様の御姿が・・・
赤紫の花を纏い岩の上や、木立の間で、ご覧になれる筈です・・・
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』 三十三観音巡り(その11)~観音様は水の化身~
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9054156
宮沢賢治がこよなく愛した高原
文化的景観
種山ヶ原
一面の黄色い絨毯
初夏には西洋タンポポが咲き、高原が一面、黄色い絨毯となります。
種山ヶ原とは
種山ヶ原は、岩手県奥州市、気仙郡住田町、遠野市にまたがる物見山(種山)を頂点とする高原地帯で、物見山・大森山・立石などを総称して別名「種山高原」とも呼ばれます。平原状の高原で気候も冷涼なことから馬の放牧地に適し、藩政時代から利用されてきました。
(岩手県気仙郡住田町世田米大股)
宮沢賢治がこよなく愛した高原としても知られ、童話「風の又三郎」「種山ヶ原」、劇「種山ヶ原の夜」などの作品は、種山ヶ原の風景や気象を題材にしています。宮沢賢治の発想の源である岩手の自然風景地「イーハトーブの風景地」の一つに指定されています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その12)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅰ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9285176
黄金の国ジパング『ケセン』
黄金の国ケセンとは
平泉 中尊寺 光り輝く「金色堂」
平泉黄金文化を支えた金の産出地としては、本吉、東磐井、気仙、江刺、遠野が知られています。伊達藩時代の気仙四大金山は「玉山、雪沢、今出山、坂本沢」で苦しい藩財政を支えました。中でも玉山金山は金の産出量の多さから「玉千軒」「千人坑」などの言葉を生み、『東方見聞録』のジパングに記された金山もここを指すとの説もあります。
宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
奥州市種山ヶ原(秋)風の又三郎像
詩「人首町」と「下書稿」
詩「人首町」には、「下書稿」の(一)と(二)があります。それには実際に現地を訪れ、その時間帯を体験しなければ表せない事柄が、幾つも記されています。
例えば「けさうつくしく凍っていて」「遠い馬橇の鈴」ですが、三月末の人首町は未だ冬の寒さが残り、また材木を積んだ馬橇の鈴の音の響きは、山村ならではの冬の風物詩です。
賢治の視線は、町の下手から五輪峠方向に注がれております。「丘には杉の杜もあれば/赤い小さな鳥居もある」は、その右方向にある久須師神社の建つ「壇ケ岡」です。
さらに「林務官・行商人・税務署の濁密係」が登場しますが、つまり彼らは、菊慶旅館前の「バス停留所」に向かうため、家々の間から道路に飛び出すように現れたのでしょう。大正13年は乗合バスが運行していますので、賢治もそれを待っていて、それらの光景に出会ったのだと思います。
菊井小兵衛と中学校のテニスの選手
「下書稿(一)」に、「甲地九兵衛」という人物が現れますが、「下書稿(二)」では「菊井小兵衛」の名に改められています。ところが、それと良く似た名前で「菊田久兵衛」という人が、菊慶旅館の二軒東隣に住み、当時からずっと豆腐店を営んでおりました。この時彼は21才ですが、彼がモデルになった可能性が高く、朝早くから働く姿が、賢治の目にとまったのかも知れません。あるいは賢治が、直接店先を訪ねたことも考えられるでしょう。
また同じく「下書稿(一)」の中に、「中学校のテニスの[選手→主将]」が登場しますが、ちょうどこの頃に「テニス兄弟」と呼ばれ、盛岡中学と盛岡商業でそれぞれ活躍したという佐賀兄弟がおります。ただしこの場合は、年齢的にも明治41年生まれで盛岡中学在学の兄の佐賀愛二が該当するように思います。バス停留所に向かって、ラケットを手に歩いてくる彼の姿が、賢治の目に印象的に映り、声をかけたりしたのかもしれません。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-4 TOKIO 2020黄金の国ジパング『ケセン』(その13)宮沢賢治が愛した~種山ヶ原と人首町~Ⅱ
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/9302948
漆黒に輝く気仙丸
白い帆はなく、大きなかじも、地に置かれた。動の役割を終えても、曲線の美しさと精巧な彫刻は、唯一無二の存在感を放つ。平成の海を渡り、令和に陸を越え、夜は宙を進もうとしながら、江戸海運の歴史や、匠の技術を人々の心に届ける。漆黒の闇に、気仙の宝が輝き始めた。
(大船渡市大船渡町)撮影:佐藤 壮
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