ZIPANG-9 TOKIO 2020 令和6年度 弘前ねぷたまつり 8月1日~7日開催!


令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)



弘前ねぷたまつり

(上記画像の上でクリックすると拡大できます。)



弘前ねぷたまつり

弘前ねぷたは国の重要無形民俗文化財に指定されています。
津軽の夏を彩る弘前ねぷたまつりは、三国志や水滸伝などの武者絵を題材とした大小約80台の勇壮華麗なねぷたが、城下町弘前を練り歩く夏まつりです。 


由来は諸説ありますが、忙しい夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心などを流す、「眠り流し」という農民行事から生まれ、またねぷたの語源も、この「眠り流し」から「ねむたながし」「ねむた」「ねぷた」と転訛したのではないかといわれています。ねぷたが初めて記録に登場したのは、享保7年(1722)の「御国日記」。五代藩主信寿公が「袮むた」を高覧したという記録が残されています。


毎年8月1日~8月7日に開催されている弘前ねぷたまつりは、昭和55年(1980)1月に重要無形民俗文化財に指定され、現在は、子どもねぷたや前燈籠など様々に趣向を凝らし、


弘前ねぷたまつり 鏡絵(前)の雄姿


弘前ねぷたまつり 見送り(後)の幽玄


鏡絵(前)の雄姿と見送り(後)の幽玄さが対照的な「扇ねぷた」、伝統ある豪華絢爛な「組ねぷた」とともに、情緒ある笛や太鼓のねぷた囃子にのせて、市民らの手によって運行されています。(無料)


弘前ねぷたまつり概要

開催期間:令和6年8月1日(木)~8月7日(水)

■8月1日~4日 : 土手町コース PM 7:00~

■8月5日・6日 : 駅前コース  PM 7:00~

■8月7日 : 土手町(午前)コース AM10:00~

※弘前ねぷたまつりの会期は、毎年8月1日~7日となっております。



津軽情っ張り大太鼓

津軽三代藩主信義公は負けず嫌いの反骨大名で数々の有名情っ張り談がありますが、その中に津軽の大太鼓のエピソードがあります。


或る年江戸城年賀の式に登城し殿中諸侯控の間で談たまたま加賀百万石城内の六尺大太鼓は恐らく日本一だろうと云うのを聞いて、信義公セセラ笑い津軽ではその程度のものは、初午に小児が打ち鳴らして遊ぶ玩具の類で物の数ではない。城内では櫓太鼓十尺に余るものを用いると大法螺を吹いたので、諸侯も黙って居ず雪どけを待って検使を下向けさせて実否を確かめることとなりました。


信義公も少々吹き過ぎたと思ったがそこは情っ張り殿様のこと、武士の一言金鉄の如しと言うので国表弘前へ早馬を以って十尺に余る大太鼓を早々に作り櫓に備えよとの達しに重臣達もびっくりしたが、名臣服部長門守康成の才覚によって見事に完成し内側には無数の金の薄板を張り、これを打てばその響き遠く新田地方にまで及んだといいます。


のち検使の面々もこの大太鼓を見て、唖然として言葉もなく帰ったといいます。
四代藩主信政公が、本所二ツ目の上屋敷に運び、非常に備えたがその響き隅田川を越え江戸八百八町に轟き渡ったので、津軽の大太鼓とはやされ江戸名物の一つとなりました。
という伝説に基づいて、昭和45年(1970年)4月に復元された大太鼓です。


雨天時の対応について

弘前ねぷたまつり合同運行は雨天決行です。

警報・注意報(大雨、暴風、雷)発令時には、17時に最終判断を行います。

※17時に花火が打ちあがった際には運行が行われます。

※中止の際にはホームページ・SNS等でお知らせいたします。


ドローンに関する注意

ドローンなどの無人航空機の飛行には許可が必要です。
ただし、ねぷた運行コース及び観覧場所周辺を飛行することは、落下による事故につながるおそれがあることから禁止されています。
ドローンなどをお見かけの方は、お近くのスタッフまでご連絡ください。


交通規制

まつり期間の交通規制については交通・アクセス情報をご覧ください


鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

公益社団法人 弘前観光コンベンション協会
〒036-8588 青森県弘前市大字下白銀町2-1 弘前市立観光館内 電話:0172-35-3131 

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


弘前ねぷたまつり


ねぷたの見どころ

弘前ねぷたは、小型のねぷたから順に運行され、後半になるにつれて大型のねぷたが運行されます。


それぞれのねぷたの後ろには笛や太鼓の囃子方の一団が続き、勇壮な囃子を観衆の心の中に残しつつ、中心市街地を練り歩きます。


また最大9メートル超の大型ねぷたが、観客に見得を切りながら電線や看板をかわしていく姿、そして重量何トンもあるねぷたの歩みをとめることなく、汗にまみれて押し引き回していく「男たち」の姿も必見です。


金魚ねぷた


また子供たちが手に持つ、藩政期の津軽で飼育されていた金魚「津軽錦」の形を模した「金魚ねぷた」もかわいらしく、とても趣があります。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「【 弘前ねぷたまつり 】 ねぷた囃子が、ねぷたに魂を与え、津軽人の血を奮い立たせる」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2606156



青森県弘前市「津軽デジタル風土記資料集」(弘前大学)


津軽地方には、貴重な文献資料が豊富に残されています。
残された数多の貴重文献から、特に「本州最北端に生きた人々」とするテーマに絞っても、更に膨大な資料が残されている状況であります。


当方ではお役目として、それに関連する絵図や、それ等に関する故事来歴等を抜粋したりの、さわり程度のことしか、お伝え出来ませんが、 是非、皆様にはこの機会にご照覧頂きたくご紹介するものであります。


今日迄、あまり知られていなかった絵図や、津軽の風物を描いた画帳など、珍しい資料が惜しげなく公開されました。歴史的にも文化的にも興味がそそられる、これらの資料をどうぞお楽しみ下さい。 


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 津軽デジタル風土記 ~ 北斎 と ねぷたまつり ~(一)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17253889



昭和28年弘前ねぶたまつり「見送り絵」


現代 弘前ねぷたまつり 弘前大学「見送り絵」


弘前のねぷた絵の素材が、多く江戸時代後期の絵本類、特に葛飾北斎らの画にもとづくことはよく知ら れているところであり、その第一人者であった竹森節堂(一八六九~一九七〇)以来、とりわけ北斎やその弟子が描く水滸伝や伝奇小説の挿絵が多く使用されてきた。


長谷川達温(一九二一~一九八九)も、やはり江戸時代の小説挿絵から着想を得ていることが、 残された作品や下絵の分析から明らかになっている。


今回のプロジェクトは、そのようなねぷた絵作成プロセスのDNAを継承し、新たな見送り絵を令和の世に提案することが出発点にある。ここに掲載するねぷた見送り絵30点は、全て川村岩山氏の手により、江戸時代の読本(よみほん)と呼ばれる伝奇小説に描かれた女性たちを、デジタル画像から描き起こしたものである。


ねぷた絵の原点に返り古典的な素材に基づくことが、現代においてかえって新しさをもたらすのでは ないだろうか。何の脈略もなく古典を現代化するのではなく、地域が有する個別の文化の文脈を理解し、それに即した上で企画化したところに、アカデミックな機関が地域の観光に関与する意義があると思われる。


温故知新を文字通り実践した作品群を、元絵(一部のみ)とともにご堪能いただきたい。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷 津軽デジタル風土記 ー ねぷたまつりと北斎 ー その邂逅への経緯 (二)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17336141



見送り絵 浮世絵師「葛飾北斎」と ねぷた絵師「川村岩山」


津軽デジタル風土記による ねぷた見送り絵の制作と考察(抜粋)

ねぷた絵師 川村岩山

ねぷた絵の素材として見た際の北斎と歌川派の違い


ねぷた絵の素材として見た場合の北斎や歌川派などの違いは、私見では、「北斎は弘前ねぷた絵が引継ぎ、歌川派は青森ねぶたに立体的に蘇ったのではないか」と考えている。


元絵の挿絵を見送り絵にする場合、両派に共通して挿絵を補正する最も重要なポイントは、七頭身程度の絵にアレンジするということが必要である。


描いた見送り絵をねぷた本体に貼付すると、人は見送り絵を下から見 上げるようになるので、頭があまり小さくならないよう調整しなければならないのである。


私は、北斎と歌川派、両派の決定的な違いは以下の所にあると思っている。


同じ女性の立ち姿の絵で見ると、歌川派の絵は、役者絵や歌舞伎絵が得意なので仕方がないが、横に広がり、直線も多く、構図上三角形を念頭に置いているかのようで、安定感はあるものの、北斎派に比べ動きがかなり鈍くなるような感じがする。


加えて歌川派の絵は、ねぷた絵の決まり事の一つである「手(8)」をなかなか描いてくれないので、北斎が手一つで片付けている動きを出す為に着物の袖のさばき方(描き方)を少しオーバーに表現して動きを表現するという特徴がある。


これは、着物の柄等を重視するので着物部分の面積を大きく描くのではないかと考えている。


さらに見送り絵は、ねぷたの構造上もあって、長方形の縦横の比率が一・五対一と横が縦に比べてかなり短いこと(昔の奉書のサイズの比率、三尺対二尺のなごりが強い)もあって、横に長い絵を好まない物理的な特徴がある。


本稿は個別の絵の評論をする場ではないが、何故歌川派の絵がねぷた見送りになりにくかったのかという私の一考察である。


それでも今回はあえて数種類ではあるが、従来のセオリーに逆らって歌川派の元絵から描き起こしてみたが、横幅が限られているので、どこで着物を切るか考えなければならず、袖絵とのバランスを考えるとやはり難しかったというのが素直な感想である。


一方、もう一つの違いに版木職人の技術的レベルの差があるのではな いかということを考えた。実際今回のプロジェクトを通じて色々な挿絵をみてきたが、描き手によってかなりのレベルの差が見受けられる等、千差万別である。


このように絵師の責任(技量)ももちろんあるのだろうが、挿絵を見る限り、版木職人の技量も作品のできに大きく係わっていたと推察されるのである。


挿絵は、高い印刷技術に支えられ、現在でも通用する芸術性に満ちたものとして発展した。現在我々がねぷた絵の参考にしている、三国志や水滸伝等の挿絵もすべて木版刷りだが、当時の印刷技術がとても高かったことは一目瞭然である。


歌川派の絵は着物の模様(特に植物系の模様が多い)にこだわりがあるようで、模様そのものが細かくどれをとっても高級織の着物のように見えるが、北斎は着物より、女性の体の曲線を上手く表現するのに気を使って描いていたと見受けられる。


着物の模様は一定の法則で表現可能であるが、体の曲線を表現(彫る)する場合は決まった法則がないので手間暇がかかり、より彫り師の熟練度が物を言うと思うのである。そのような観点からも、私は、北斎はこの職人達にかなり恵まれたと思っている。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 古今折衷「津軽デジタル風土記」 〜 新形式で後世に残すねぷた絵DNAの継承~(三)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/17397380



※現在、2300件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
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ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
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ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
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ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
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ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
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ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
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ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
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ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
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