ZIPANG-9 TOKIO 2020 日本の精神文化と国土の美しさについて再発見~紅花と一子相伝・舞楽の神髄を伝える~


令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)


第1回はトップ画像の世界遺産を目指している、
山形県《日本遺産「紅花」》関連のアーカイブ リンク記事からご紹介いたします。


谷地八幡宮「林家舞楽」~舞楽の神髄を伝える~


谷地八幡宮「林家舞楽」は日本三大舞楽の中でも、一番古い形をそのまま保っている。
色鮮やかな紅花染めの衣装は、陵王の舞をより一層引き立たせている。


谷地八幡宮「林家舞楽」陵王図(部分)


まえがき

宮中舞楽、四天王寺、そしてこの山形県の河北町にある谷地八幡宮で行われる林家舞楽は日本三大舞楽とされており、中でも林家舞楽はこの内一番古い形をそのまま保っていることでも有名です。


この町河北町は紅花大尽と呼ばれる旧家が沢山あり、奥ゆかしいお雛見という恒例行事が行われる事でも有名な場所です。


山形と言う処は全国的に見れば、何故かド田舎で地味で素朴だよね〜…と思われる方が多いかも知れませんね?


でも、蔵王温泉やあのトニー・ザイラーが滑った蔵王スキー場、山寺、奥の細道の芭蕉紀行と言えば…? あぁ〜蔵王のスキー場ならば、知ってるよ!昔、上野駅から夜行列車で、盛んに通ったもんだ。でも、あれは宮城県だよね〜なんて、答えが返ってきます。……違います。山形県です‼


では、さくらんぼのご本家は?また、ラ、フランスの本場は? も、一つ酒の十四代は?って問えば……それってもしかすると山形?と寝ぼけた答えに…傷ついちゃいますね〜


序に天童市は何が有名でしようか? ハテ?…(ダンマリ続く)・・・将棋の日本一を決める聖地ですよ〜


さて、此処でご紹介する河北町はこの天童市に隣接する町で、江戸時代には谷地と呼ばれ、大地は水に恵まれた肥沃な農地であり、曾て "紅一匁金一匁" と呼ばれた日本一の紅花の栽培地でした。


最上紅花の栽培面積




紅花生産高の変化

*文化8年(1811)168t・・・時価17億1千万位(昭和50年 1両/2万6千円とする)

全国の紅花生産(享保16年)

1:出羽最上 2:奥州仙台 3:奥州福島


川港としても日本海に通じる最上川流域にあり、都や日本海に沿う各港との北前船による交易が盛んとなり、多くの近江商人が出入りして紅花大尽と呼ばれる豪商を輩出したのです。今でもその末裔である旧家では、奥ゆかしい "お雛見" という恒例行事の発祥地でもあります。


ただ、当地は日本一の栽培地であっても、昔からそれに携わっても農民や一般庶民の染色行為は一切、禁じられていましたから彼らは紅花がどんな色に染まるかは知る由もありませんでした。 特に紅花の儲けで、多くの都文化を運んだ紅花豪商たちは、帰り荷として贅沢に使われた紅花染めの衣裳で着飾ったお雛様を運び込み、土地の民衆に披露したのです。それは想像することさえもできないお内裏様を模したお人形達でした。


日野 正野玄三家の御殿飾り/正野家(所蔵)


河北町谷地の "お雛見"については、後日、当編集局にお任せしてここでは、近江商人の故郷
(湖東商人、八幡商人、日野商人)のうち日野のおひなまつりをご紹介します。


桟敷窓越しに飾る日野のおひなさま(お客様や道行く人々への感謝と歓迎のご挨拶)


2月上旬~3月上旬、日野町の大窪から村井・西大路にかけての商店街や商人屋敷など、どこか懐かしさを感じる日野の町並み。そんな街角や商家・個人宅に、さらに日野独特の風景である桟敷窓越しなどに、江戸時代から現代に至るまでのお雛様や創作人形が150ヶ所以上に飾られます。


桟敷窓と雛壇の間の中庭の様子、茶を点ててお客様をお迎えする。


また、河北町ではお祭り行事にも力を入れました。中でも最も歴史の古いのが谷地八幡宮の舞楽でありましょう。


舞楽と言えば…皆様ご存知のお正月には必ずTV等で聴こえてくるあの、雅びた越天楽の雅樂ですが…雅楽と共に日本の伝統芸能である三大舞楽と言えば、先ず宮中舞楽、四天王寺舞楽、そしてこの山形県の河北町にある谷地八幡宮で行われる林家舞楽とされています。


中でも林家舞楽は、一番古い形をそのまま保っているのだそうです。
勿論、何れも国指定重要無形文化財です。


谷地八幡宮「林家舞楽」谷地どんがまつり


谷地八幡宮 一子相伝「林家舞楽」


シルクロード 紅花調査隊(ヤズドにて)
隊長 日原もとこ


東北芸術工科大学 名誉教授 まんだら塾 塾長
風土・色彩文化研究所 主宰 日原もとこ(覚書より)


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020「舞楽の神髄を伝える谷地八幡宮 ~林家舞楽~(第一話)」

https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5888137/



谷地八幡宮代々所蔵のお雛様(左・中央)と檀家よりお借りしたお雛様が大広間に飾られていて、来る4月2日、3日に開催される「谷地ひなまつり」まで展示されますので、ご参拝の
折には是非お立ち寄り下さい。


雛と紅花の里 河北町

江戸中期以降、最上紅花の集散がこの地で盛んに行われました。

町には、天正年間(1573年~1592年)の紅の生産を物語る資料が残っており、江戸時代も寛政年間(1789年~1801年)ごろから安政年間(1854年~1860年)あたりまでは、いわゆる最上千駄(「紅もち」生産が一駄約120kg×馬1000頭)の時代で、全国生産の50%をこの村山地方で生産していました。


紅花(日本・山形)


紅花(日本・山形 河北町)


紅花(シルクロード サマルカンド郊外)シルクロード 紅花調査隊     @日原もとこ


紅花は古代中国や、朝鮮半島から5~6世紀頃渡来したとされていましたが、最近では奈良桜井市の纏向遺跡(弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡)から大規模な紅花染色が行われたと推測される側溝跡が発見され、その渡来時期が大幅に見直される事態になりつつあるようです。


当初は栽培地が都周辺に限られていたものが、やがて全国各地に拡がり、次第に雪深い東北地方等でも栽培されるようになりました。紅花は 岩手県以南の日本全国で栽培されたことになりますが、特にこの村山盆地周辺が全国生産の半数を占めるようになったのは、土地が紅花栽培に適しており、換金作物として重宝されたためといわれています。


この町には最盛期に20軒に及ぶ紅花荷主問屋があり、更に仲買人の花買仲間の目早やサンベと呼ばれる人達が25人から30人を数え、山形市につぐ紅花の一大集散地でありました。


このようにして生産された紅花は、京都や大阪へ出荷されました。
寛文年間(1661年~ 1673年)幕府の命を受けた河村瑞賢の差配などもあって、江戸・大阪への物資の輸送が最上川を利用した酒田出しになると、産物の流れがおのずと関西方面に移り、京都・大阪には近江商人や伊勢商人が定住し、最上の商人たちも最上店や谷地店と呼ばれるいわば出張店を持つようになりました。


当地方の物産である米・紅花・大豆・青苧・漆・真綿・油などを移出した、その帰り荷として、関西方面から呉服地・繰り綿・瀬戸物・塩・砂糖・小間物等が運び込まれました。


特に調度品・絵画・書籍・京人形などの美術工芸品が数多く移入されました。現在貴重な文化財として町内に数多く残る雛人形もまた、その一つでした。


谷地ひな市の推移

天正時代(1573年~1591年)の頃、谷地城主白鳥十郎長久公は谷地地区に毎月十八もの市を設け大変な賑わいをみせていました。その中に北口六斎といい、二と六の付く日に市が設けられていました。


3月2日に雛人形や節句の食材・用品が軒を連らねて行われるようになってから、いつしか「節句市」「ひな市」と呼ばれ、近郷近在の人出が盛況をみるようになりました。


山形 河北町 谷地ひな市


その理由は、尾花沢・大石田・楯岡・東根・左沢・中山などの近郷の雛市が終わり、最終に 谷地の雛市が開かれたため、3月3日の「節句」の前日に行われたこの市が、近郷の雛市のしめくくりとなり時機をえた催事でもあったためです。


また、市に面した紅商家や富裕家で当時「雛」の一般公開があったようで、現在もこの風習が受け継がれています。その素晴らしい豪華絢爛たる「雛」の見学も魅力の一つであったろうと思われます。 ことのほか北口六斎が混雑したことから、安政4年(1857年)北口通り中央に中堰が造られ、上市東・下市西と分離し、緩和策をとったこともあるようです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~雛と紅花の里 河北町~ 「谷地ひなまつりに秘められたお婆ちゃんたちの思いとは・・・みちのくひなまつり発祥の地より(第二話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5901235



河北町・谷地は「紅花」と「雛」と「舞楽」の里


べに花まつりには、浴衣の君に紅花のかんざしを・・・


山形 河北町 紅花資料館「享保雛」


谷地八幡宮林家舞楽「陵王」。紅花染の衣装です。


谷地八幡宮神職の林家が、一子相伝にて奏する舞楽で、天王寺系と云われております。
貞観二年、僧円仁(慈覚大師)に追従し羽州山寺にて舞楽奉納。爾来、当地に残り今日までその伝統が受け継がれてきました。


※慈覚大師 円仁(794年~864年)は

下野国の壬生に生まれ、日本仏教の礎を築いた最澄の一番弟子で、最後の遣唐使。長い天台宗の歴史、ひいては日本仏教の歴史に、大きな足跡を残す。


べに花まつり

春まだ寒い4月中ころに種が蒔かれる紅花は、寒暖の差が激しいここ村山盆地で育ちます。

そして半夏生(7月2日)※のころ、他の花に先がけて一輪だけが花をつけ、やがて、すべての花が黄色に色づきます。目の覚めるような黄色い花が日を追って花弁の根元に赤い色素が登り初める頃、花摘みが行われ、紅餅が作られます。この紅餅から染料や口紅などが作られます。


7月初めからのべに花まつりでは、紅染衣装の展示(紅花資料館)、紅花路を駆け抜けるマラソン大会、切り花などのプレゼント(山形空港とさくらんぼ東根駅)、各家庭で育てた紅花の出来栄えを競い合う切り花展、俳人芭蕉になりきっての俳句大会などが行われます。


”まゆはきを悌にしてべにのはな” 松尾芭蕉


あなたも俳人芭蕉になったつもりで一句どうぞ…


※半夏生とは、夏至から数えて11日目の7月1日頃から七夕頃までの5日間が半夏生。
太陽暦では7月2日頃。その頃に花を咲かせることに由来する説や、 葉の半分を残して白く変化する様子から「半化粧」とする説があります。



紅花の原産

今ではハナといえばさくらのことですが、昔は紅花のことでした。(へ ェ~、それは初耳ですナ〜)

ハナ畑・ハナ摘み・生バナ・ハナ寝せ・干バナ・水バナ・ハナ染など、いずれも紅花にかかわることばです。(なるほど一つ賢くなりました!しかし、水バナって花粉症の私のことですかね〜?とんだご無礼を…)


そういえば、昔々高校体育祭、学年対抗の出し物で踊った花笠音頭にも・・・

目出度目出度の

若松様よ

枝も (チョイチョイ)

栄えて葉も茂る

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

わしがお国で

自慢なものは

茄子と (チョイチョイ)

胡瓜と笠踊

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

裏の石橋坂

ならよかろう

とんと (チョイチョイ)

踏んだら悟るよに

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

米のなる木で

作りし草鞋

踏めば (チョイチョイ)

小判の跡がつく

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

俺が在所に来て

見やしゃんせ

米の (チョイチョイ)

なる木が

お辞儀する

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)

花の山形紅葉の天童

雪を

(チョイチョイ)

眺むる尾花沢

(ハ ヤッショ マカショ シャンシャンシャン)


そういえば、全員たすき掛けで花笠をイガグリ頭の上で クルクルと廻した記憶が蘇ってきました…


「花の山形」の花とは紅花のことだったんですね~当時は、てっきり山形は色々な花の咲き乱れている地であり「花笠音頭」が誕生したのだと誤解をしていました・・・(苦笑)


言い訳になりますが(男が言い訳するな~!)、父兄(母・姉妹)も合わせると5000人位の前で坊主頭の高校生の男どもが花笠をつけて踊る図を想像してみて下さい。恥ずかしくて恥ずかしくて花笠の花はどんな花かなんて考える余裕もなく、また周りの大人たちや特に見学の他校の女学生の笑い声が、こだまのようにより一層大きく聞こえて、とにかく早く花笠音頭が終わることだけを願っていたのです。


昨夜放送のNHK大河ドラマ「いだてん」四三がマラソンを完走できなかった時の気持ちがわかるような気がいたしました(何を言っとるんだね君は~オリンピックと一緒にするな~、加納治五郎先生に言われそうですね)・・・今からかれこれ55年以上前の花笠音頭のほろ苦い思い出でした。


花笠音頭の歌詞は、160種類以上あるそうですよ~


おばなざわ(尾花沢)花笠まつりです。アレ~、男の人たちもちらほらとおられるようですね…


山形花笠まつり


山形 銀山温泉6月~10月末まで毎週土曜日は温泉街で本場笠回しの花笠踊り


尾花沢市は花笠踊りの発祥地です

大正8年灌漑用水の「徳良湖」を築堤の際唄われた歌が現在の「花笠音頭」の元歌となり,働いていた工夫がかぶっていたスゲ笠で振りを付けたのが花笠踊りの始まりと言われております。


現在は伝統5流派の踊りが伝承されています。

大きな笠がダイナミックに廻る笠回しは圧巻です。

おばなざわ花笠まつり 8月 27日・28日 2日間

(後日詳しくご案内いたします)


迷路に入ってしまったようなので元に戻ります…

紅花は地中海沿岸、またはエジプトが原産地といわれているキク科の植物です。耐寒性で、茎の高さが1メートル内外、7月上旬には茎頂にアザミに似た鮮黄色の可憐な花をつけます。

それでは、紅花は原産地のエジプトから、
どういう道をたどって日本に来たのでしょうか⁉


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 まゆはきを悌にしてべにのはな ~芭蕉~紅花の本場、谷地の「べに花まつりは、浴衣美人が映える半夏生の頃・・・(第三話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5935889



閑さや岩にしみ入る蝉の声 松尾芭蕉(『おくのほそ道』より)


山寺「宝珠山 立石寺」にて芭蕉翁と曾良の師弟像(近くには蝉塚が・・・)



古記事に出てくる紅花

「シルク・ロード」と言う名称は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが名付けたのであるが、紅花はこの道を長年かかって、中央アジアから中国に伝えられたと考えられる。
紅花だけでなく、ぶどう・きゅうり・えんどう・ごまなどの食べ物のほか、楽器や舞踊・奇術などもこの道を通って中国に伝えられたといいます。


紅花は中国へ来たあと、我が国には朝鮮半島を通って伝えられたと思われるが、その時期はいつ頃であろうか。


我が国で最も古い公的な歴史に『古事記』があります。古事記は和銅4年(711)太安麻呂が元明天皇の命を受けてまとめたもので、上・中・下の3巻からなっています。そのうち下巻は仁徳朝から推古朝までのことを書いてあるが、その中に、紅花のことが4回出ています。


紅花の記録としてはこれが最も古いもので、そこからも紅花伝来の時期を推測することができるのです。仏教が百済から伝えられたのは、欽明天皇の13年(538)とされていますが、紅花もその頃朝鮮から伝えられたと考えてよいのではないでしょうか⁉


官位十二階制の色彩

官位十二階の制度は、推古天皇11年(603)12月に聖徳太子が創案したものといわれます。

この制度は、色の異なる冠を用い、朝廷における席次を定める制度です。その順次を十二階にわけ、名称は、大小の徳・礼・信・義・智でこれにそれぞれ紫・青・赤・黄・白・黒に染めた冠をあてています。


王朝時代 紅花染めはマドンナ の玉座に

武家文化、鎌倉幕府成立前に天皇が政治の実権を握っていた時代が「王朝時代」と謂われております。 


伊勢~明和町「斎宮」の斎王~紅花染めが艶やかですね…斎王まつり


斎王(さいおう)…それは、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことであります。歴史に見られる斎王制度は、天武二年(674)、壬申(じんしん)の乱に勝利した天武天皇が、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を神に仕える御杖代(みつえしろ)として伊勢に遣わしたことに始まりました。 


以来、斎王制度は660年以上にわたって続き、60人以上の斎王が存在した。
伝説は、伊勢に天照大神を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)など、さらに多くの斎王の物語を伝えています。


九州の太宰府に次ぐ規模の「斎宮」模型


竹の都 斎宮(さいくう)。それは、天皇に代わり、伊勢神宮の天照大神に仕える斎王の住まう所であった。そこは碁盤の目状に道路が走り、木々が植えられ、伊勢神宮の社殿と同じく清楚な建物が100棟以上も建ち並ぶ整然とした都市で、そこには斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係などあわせて500人以上もの人々が起居し、当時の地方都市としては『遠の朝廷(とおのみかど)』と呼ばれた九州の太宰府に次ぐ規模を持っていました。


また、斎王を中心とした都市であることから、斎宮では貝合や和歌など都ぶりな遊びが催された。また、都との往来もあり、近隣の国からさまざまな物資が集まるこの地方の文化の拠点でもあったと考えられています。


紅花とことわざ

紅は園生(そのう)に植えても隠れなし

大成する人物は子どもの時から常人と違って優れた素質が認められるの意


柳は緑 花は紅

天地自然のあるがままで、人工の加わらぬさま


万緑叢中 紅一点

多くの男性の中にただ一人女性がまじっているたとえ


薬九層倍 花八層倍

売値が原価にくらべて非常に高いこと


尼御前の紅

不似合いなことのたとえ


あかがり足に紅絹裏(もみうら)

紅絹裏をちらつかせて歩く女性の素足にあかぎれが切れていること

不似合いで艶消しな取り合わせをいう


江戸の紅絹裏

難波の紫

都の黄無垢(きむく)

それぞれの地では流行おくれの衣服とされたところから、古びて流行おくれのもののたとえ


江戸紫に京鹿子(かのこ)

紅染は京都の名産、紫は江戸の銘物である。江戸時代の東西両都の染色の特徴をいうことば


紅(くれない)は染むるに色を増す

紅の染色は、最初は色薄く何回も繰りかえし染めて濃くすることから繰りかえし努力することが大切であるということ


女は華丹(かたん)の窈窕(ようちょう)を乱すをにくむ

華丹はおしろいや紅の意、お化粧も過ぎると逆効果になる


人に千日の好無く 花に百日の紅無し

人の親しい交際も花の盛りと同様に長続きしないものだ


宝剣は烈士に贈り 紅粉は佳人に贈る

宝として大切にしている剣は勇士に贈り、紅とおしろいは美人に贈る。物を贈るに当を得ていることのたとえ


紅葉(もみじ)に置けば紅の露

環境によって外観の変わることのたとえ


木綿布子に紅絹(もみ)の裏

粗末な木綿の綿入れに豪華な紅染の絹をつけること。つり合わないことのたとえ。
また外見より内実がすぐれていることのたとえ


寒中の丑の日に買った紅は薬になる

寒中に作られた紅は品質がよいうえ口中の荒れを防ぐ。丑の日に買うと小児の疱瘡に薬効があるという


売り物に紅をさせ(花を飾れ)

売る品物は美しく見せよ


紅白粉は女のたしなみ

紅や白粉で化粧することは女として大切な心がけの一つである


誰に見しょとて紅鉄漿(べにかね)つける みんな主への心中立て

誰に見せるために化粧をするものでもありません、それは皆すべていとしいあなたへのまごころを示すためなのです


昔馴染(なじ)み紅花染め(紅花色) 色がさめてもきが残る

昔馴れ親しんだ人はいつになっても気になって忘れることができない


千入(ちしお)に染むる紅(くれない)も 染むるによりて色を増す

よいものでもさらに心をくばりみがきをかけてすぐれたものにすべきである


霜葉は二月の花よりも紅(くれない)なり

霜のために変色した紅葉は二月の花よりも赤くて美しい


朝紫に夕紅(くれない)

朝は紫色に見え夕方は紅色に見える遠い山の美しさをいったことば


朝(あした)に紅顔(こうがん)ありて 夕べに白骨となる

人生の生死のはかり知れないこと 世の無常なこと


紅顔(こうがん)の美少年

若々しく生々とした血色の美少年


花染めの移ろい易き人心

草木染めは変色し易いことから、人の心のうつろい変わりやすいこと


紅網代(べにあじろ)

かごかき棒が紅花の染料を塗ってある網代かご 大奥にいる御年寄りが御台所の代参などで寺院などに参拝するときに乗る


紅茶宇(べにちゃう)

ポルトガル人がもたらしたインド産の薄地琥珀織の紅色の絹。袴や裃を作った


来迎の柱は金箔 女の湯具は緋縮緬

何事も道具立てがよくないと立派に見えない


緋縮緬 虎の皮より恐ろしい

緋縮緬は商売女の腰巻きに、虎の皮は鬼のふんどしに用いられたところから、商売女は鬼より恐ろしい


参考

今回の河北町の紅花のご紹介に当たり取材の中で「仏教伝来と紅花」の繋がりについて書いてあるのをよくお見受けしました…そこで思い出しのたのは、30数年前に度々訪ねたことのある対馬のあるお寺のことでした。

紅花と関係があるのかどうかはわかりませんが、国境の島「対馬」と日本最古のお寺と言われている対馬の「梅林寺」についご紹介致します。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 最上川とべに花物語 ~「行く末は 誰が肌ふれむ 紅の花【松尾芭蕉】・・・ (第四話)」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/5960062



山形 河北町谷地「紅花資料館」の紅花畑


この資料館は、近郷きっての富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡である。屋敷の総面積は約80haで、かつては土蔵が6棟、板倉が7棟もありましたが、老朽化が甚だしく、母屋をはじめ多くの建物が整理され解体されてしまった。


この屋敷には武器や生活用品および古文書など5,000点が保存してある。
昭和57年にこれらの寄贈を受けた町が、漸次整備修復を加え、昭和59年5月に「紅花資料館」として開館した。
〒999−3511山形県西村山郡河北町谷地戊1143 TEL:0237-73-3500


山形 酒田 北前船 千石船(⒉分の1)


はじめに

前回の記事では日本海側こそが「表日本」だったお話に焦点を合わせましたが、それには切っても切れない主人公が「北前船」だったからです。また、その「北前船」にとっては、切っても切れないプリンセスが「最上紅花」なのです。今回はそのお話が中心となります。


山形 酒田 山居倉庫 北前船集積地の米倉庫 「おしん」の舞台となりました。


酒田 山居倉庫

北前船西廻り航路の主力商品はお米。ではなぜ数あるお米の生産地の中から酒田が北前船の寄港地として選ばれたのでしょう? それはお米の保管倉庫として使われている山居倉庫が最上川に隣接して建ち、船にお米を積み込むのに便利だったことが理由のひとつであり、保管に必要な様々な工夫凝らされていたことがあるのだろう。


この山居倉庫は白壁、土蔵づくりの倉庫が9棟も連なりお米が10,800トンも収容可能。風よけや西日による高温防止のために背後にケヤキを植えたり、内部の湿気を防止するため二重屋根にするなど、お米の保存に最適な倉庫にするための工夫があちらこちらに見られます。


今も現役の農業倉庫として使用されていて、秋には収穫されたお米を運ぶ風景を見ることができるのです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 「最上紅花」 が 「北前船」のプリマドンナだったこと知っていますか?(その2) ・・・【寄稿文】色紐子
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/11002749



知夫里島(知夫村)島津島

オオ〜!此処はまさしく隠岐島!世が世なれば…
島津島 ああ島津島 島津島 ー 詠人知らずー ・・・
とか、なんとか…どっ かで聴いたような珍迷句が生まれそうな絶景…


焼火神社
1732年改築の社殿は隠岐最古で、通殿・拝殿とともに国指定重要文化財です。


隠岐への航海中、遭難しかけた後鳥羽上皇が御神火で導かれたと伝えられ、海上守護神として信仰を集めています。参道(登山道)は神域として守られてきた多様な植物群が楽しめます。

住所 島根県隠岐郡西ノ島町美田

アクセス 別府港より車で20分 駐車場より徒歩15分  


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 日本海に浮かぶ宝島、隠岐4島~隠岐ユネスコ世界ジオパークの魅力~(1)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/20093070



隠岐の島 灯台 今日も守る「安全と伝統」を・・・


隠岐ユネスコ世界ジオパークは、「日本海の孤島が生み出した荘厳な大地と独自の生態系、そして 人の営みが織りなす景観」をテーマとしています。

このテーマを一般の方にもわかりやすく伝え、 興味を持ってもらうために隠岐ユネスコ世界ジオパークでは 3 つの要素に分けています。


(1) 隠岐諸島が形成された「大地の成り立ち」 ユーラシア大陸の縁辺であった時代から、湖の時代、海の時代、島根半島の先端の時代を経て 現在のような離島となった隠岐諸島の成り立ち。


(2) 大地の上に成り立つ「独自の生態系」 北方系、南方系、亜高山性、大陸性の植物が共存する不思議な植物分布。


(3) 古代から続く「人の営み」 約 3 万年前から石器の材料として用いられた隠岐の黒曜石を通した古代からの人の営み。 さらに、不思議な生態系や独特の歴史・文化について「地質」「地理」「地形」「歴史」「地域」「地 球」の 6 つのキーワードを用いて考えると、小さな離島に居ながらも「地球とは何か」を知ること ができる貴重な地域です。


隠岐ユネスコ世界ジオパークは、これらの貴重な地域資源を活用し、隠岐の人々が誇りと愛情をもって隠岐を語り伝えられるようになることによって、ユネスコの目的に沿う持続可能な経済活動、文化活動を推進し、隠岐地域の活性化と振興を図ることを目的とします。


隠岐の文化を生み出したのは?

隠岐の多様な文化は、どのようにして生まれ、伝えられてきたのでしょうか。隠岐の歴史・文化の形成要因と考えられる、黒曜石、遠流の島、北前船についてご案内します。


延喜式(724年)に定められた遠流の地


隠岐が遠流の地と定められたのは聖武天皇の時代、神亀元年(724年)で、江戸中期になって一般の罪人が流されるようになるまでは天皇や公家、役人などの政治犯が配流となっていました。


隠岐が遠流の地となったのは、都から遠く離れているというだけでなく、島での生活に問題が少ないということもありました。流された貴人が飢えたり、生活に危険を覚えるような場所ではだめだったのです。


その点、隠岐は海に囲まれ作物豊かで既に黒曜石以来の歴史のある土地であったことが選ばれた理由になっているのでしょう。 隠岐に流された著名な人物には、鎌倉時代に権力闘争に破れた後鳥羽天皇と後醍醐天皇、そして平安時代の歌人小野篁などがいます。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-5 TOKIO 2020 守り伝えられる隠岐の歴史 ~隠岐ユネスコ世界ジオパークの魅力~(2)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/21657243



新潟 旧齋藤家別邸 版画


当時の港の様子がよくうかがえます。荷物で溢れかえる帆船や法被姿の沖仲士、活気が感じられます。新潟の繁栄ぶりを偲ぶ豪商の迎賓館「旧斎藤家別邸」は以前取材しています。
詳しくは、巻末にリンクを貼ってありますのでご覧ください。


新潟新潟県政記念館(内部2)※(内部1)はURLにてご覧いただけます。


新潟県政記念館は、明治16年(1883年)に新潟県会議事堂として建設され、昭和7年(1932年)に新設の県庁舎内に議場が移されるまで、県政審議において重要な使命を果たしました。 その後、昭和44年(1969年)に重要文化財「新潟県議会旧議事堂」に指定され、大規模解体修復工事を経たのち、昭和50年(1975年)から「新潟県政記念館」として公開しています。


見どころ

議事堂は、木造2階建、漆喰壁、中央に塔屋をのせた左右対称の堂々たる建物で、中には議場を始め、知事室、議長室、委員室など14の部屋があります。 


外回りでは、白亜の建物の角を縁取る隅石(すみいし)、正面の玄関車寄せとバルコニー、歯形飾りのある軒蛇腹、両翼の棟の擬宝珠(ぎぼし)形の棟端飾り、風見をもつ八角塔屋などが目を引きます。


内部では、議場の大空間を構成しているトラス小屋組、傍聴席を支える柱頭飾り付き鋳鉄柱、上げ下げ式のギヤマン窓、室内天井に残る漆喰彫刻など、各所に明治の先人のすぐれた技術や工夫の跡が見られます。 


総じて、伝統と洋式を織り交ぜたいわゆる擬洋風建築の代表的なもので、文明開化期特有のはつらつとした個性美がうかがわれます。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-4 TOKIO 2020 新潟開港150周年記念フォーラム「つながる地域、広がる都市間交流」-新潟開港150周年を契機とした、さらなる地域連携の可能性-
https://tokyo2020-4.themedia.jp/posts/7283432



小浜西組伝統的建造物群保存地区

古くから大陸や朝鮮半島、そして京の都と深くつながってきた小浜には、その繁栄の名残を今に伝える町並みや文化財、伝統行事が数多く伝承されています。


小浜 若狭 北前船で北海道へ


小浜市伝統の若狭瓦。屋根には波が立った立浪型鳥衾が施されています。波や水がデザインされ建物を火災から守る火災除けとして多く使われていました。

かって若狭瓦は名産品と一緒に北前船で北海道や東北に送られました


小浜西部地区


平成20年6月9日の官報告示で、小浜市小浜西組伝統的建造物群保存地区(約19.1ヘクタール)が国の重要伝統的建造物群保存地区として、正式に選定されました。


江戸時代中期まで日本海側で有数の港町として繁栄していた名残を今に伝える優れた歴史的な町家建築物等が数多く残っています。特に、三丁町通りや八幡神社以西の旧丹後街道沿いには、歴史的町並みが残っています。


小浜は、古くから若狭の中心地であり、中世の頃には京に最も近い日本海側屈指の湊町として繁栄していました。大永2(1522)年には若狭武田氏が後瀬山城を築き、山麓には居館を配置し、町を整備しました。


江戸期になると、京極家が小浜城の築城を開始し、これを中心とした町づくりを進め、中世の頃には武家と町人が混在した小浜の町は町人地として整備されることになり、東・中・西の3組に分けられました。


現在、小浜西組で構成される町並みは、現存する明治4(1871)年の地籍図とほぼ同じ形態であり、茶屋町だけでなく、丹後街道を基軸とした町割全体が評価されています。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020~伝統の若狭瓦北前船で北海道へ~「小浜市の国重要伝統的建造物群保存地区を歩く(その4)」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4815904



「江差の五月は江戸にもない」

北海道の南西部に位置し、北海道文化発祥の地といわれる江差町。


江差町 姥神大神宮の屋根瓦は北前船で運ばれた海岸地域に強い「石州赤瓦」


江戸期のニシン漁最盛期には「江差の五月は江戸にもない」といわれる程繁栄を極め、北前船交易によりもたらされた江差追分などの伝統芸能や生活文化が数多く伝承されています。

また、江差沖で座礁沈没した江戸幕府の軍艦「開陽丸」が復元され、幕末のロマンを漂わせています。


北前船


北海道の中でも古くから和人が訪れ、最も早く開港した港町のひとつ、江差町。
17世紀以降、日本海航路の北前船の往来を基盤に、檜材とニシン漁、ニシン取引による繁栄を築いたこの町には、数多くの歴史的・文化的遺産が残されました。


この美しく貴重な景観を後世に永く伝え、また訪れる方々に心の安らぎを感じていただこうと、歴史の香り漂う街並みの整備を進めています。


その核となるのが、中歌、姥神町一帯の旧国道沿い地区の「いにしえ街道」。

ここには明治初期まで盛んに行われた檜材とニシン取引に関連した問屋、蔵、商家、町屋、それに社寺などの歴史的建造物や史跡、旧跡が数多く残されているのです。


車をおりて気軽に散策を楽しみながら、歴史のスポットを探勝し、瓦屋根や木造家屋の素朴な美しさを愛で、ニシンそばなど郷土の味覚を味わっていただこうと、快適な散策コースの整備、休憩スポットの設置が進められています。


その一角に観光拠点となる建造物「江差町会所会館」が改修・整備され、無料休憩所などとして活用されております。

これから街をめぐるとき、またはひと息つくときにもピッタリの憩いのスペースです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-2 TOKIO 2020 ~江差・姥神大神宮渡御祭~(その1)「ご存知ですか?本州、四国、九州そして沖縄の皆さん~北海道『江差町』とはこんな町です!」
https://tokyo2020-2.themedia.jp/posts/4661417



近江商人発祥の日野(日野商人)、東近江・五個荘(湖東商人)、近江八幡(八幡商人)


近江商人の店先です。浮世絵や時代劇でよく見かける風景ですね。
当時はこんな風にして商いをしたのですね。(近江八幡市市立資料館近江商人の店舗)


紅花の普及と北前船
買積みの北国廻船を考案した近江商人とは

近江商人とは、近江を本宅・本店とし、他国へ行商した商人の総称で、近江八幡・日野・五個荘から特に多く輩出しました。近江商人は、そのほとんどが江戸時代末期から明治時代の創業で、現在も商社として多くの企業が活躍しています。


三方よし

近江商人の行商は、他国で商売をし、やがて開店することが本務であり、旅先の人々の信頼を得ることが何より大切でした。そのための心得として説かれたのが、売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」です。


取引は、当事者だけでなく、世間の為にもなるものでなければならないことを強調した「三方よし」の原典は、中村治兵衛宗岸の書置です。近江商人は遠く他国へ旅をして商売をしましたが、その土地で排斥されずに受け入れられ、むしろ歓迎されました。


しまつしてきばる

これは近江商人に共通な日常の心構えです。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかる生活を表現しています。


「しまつ」は、単なる節約ではなく、モノの効用を使い切ることが真にモノを生かすことになるのだということであり、「きばる」は、近江地方では「おきばりやす」という挨拶につかわれているくらい日頃から親しまれた言葉です。近江商人の天性を一言で表現しています。


正直・信用

今昔にかかわらず、商人にとって何よりも大切なものは信用です。信用のもととなるのは正直です。


外村与左衛門家の「心得書」でも、正直は人の道であり、若い時に早くこのことをわきまえた者が、人の道にかなって立身できると説いています。


正直は、行商から出店開設へと長い年月をかけて地元に根づいて暖簾の信用を築き、店内においては相互の信頼と和合をはかるための基でした。


陰徳善事

人に知られないように善行を施すことです。陰徳はやがては世間に知られ、陽徳に転じるのですが、近江商人は社会貢献の一環として、治山治水、道路改修、貧民救済、寺社や学校教育への寄付を盛んに行いました。


文化12(1818)年、中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを完成しました。一千両を要した工事の指揮監督に自らあたり、後の架け替え費用を利殖するために二千両を幕府に寄付しました。


近江商人と天秤棒

近江商人は「朝は朝星 夜は夜星(あさはあさぼし よはよぼし)」朝は、昨夜の星がまだ空に残っている時分から宿を出発して、夜空に星が出るまで一生懸命に働いたのですね。


現代の若者との会話

エッ、天秤棒って知らない?ほら、子供の頃(と言われても時代が違う)、金魚売のおっちゃんが長い棒を肩に担いで前と後ろに椹(サワラ)の大きな桶に金魚を入れ「え~金魚ぇ~金魚」って、町や村を売り歩いていたでしょ⁉子供たちは皆で金魚売のおっちゃんの後ろにくっついて隣町まで行ったっけ!


見たことないって(そうか!今は熱帯魚や金魚、ペットだってインターネットで買えたんだ)・・・話がかみ合わないので先に進むけれど、精神だけでも分かって欲しいのにな~


この建物はどれくらい経っているか想像してみて下さい!


近江商人たちに受け継がれてきた家訓や店則には永い商売の実践を通じて得た信念が盛り込まれています。「売り手よし」「買い手よし」「世間よし」の「三方よし」の理念には時代を越えた普遍性・有効性があり、近江商人の高い倫理性や社会貢献は、近年改めて注目されています。


近江商人の天性を一言で表わしているものに「しまつしてきばる」という言葉があります。倹約につとめて無駄をはぶき、普段の生活の支出をできるだけ抑え、勤勉に働いて収入の増加をはかるという、日常の心構えを表現しています。他にも、多くの示唆に富む味わい深い言葉がたくさん残されています。


時代や社会が変わっても、常に世間を重視する視点で商いを続けてきた近江商人の“哲学”や“商法”は、今日に脈々と息づいています。


近江商人の特色


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG-3 TOKIO 2020 ~ 日野・五個荘・近江八幡 ~ 近江商人のふるさと「売り手よし・買い手よし・世間よしの『三方よし』の理念とは」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6479273



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(敬称略)

紅山子(こうざんし)


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※現在、2300件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
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ZIPANG-9 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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