ZIPANG-9 TOKIO 2020 柳川「御花」柳川藩主立花家別邸 復活の神様とともに【三柱神社】(その3)


御花について



船頭さんはこちらの方ですか?
「へい!生まれも育ちも柳川です。若い頃少しだけ三河の家具メーカーで職人見習いをしていました。親父の後を継ぐために戻って来たんですよ。ところでお客さんは何方から?」

東北です。津軽から来ました。「ぇえ~そんなに遠くから⁉お一人で?」
彼は、御花の建築と庭に興味があり、一人で見てまわっているんです。
それと…『弘前の花筏に勝るもの無し』と言って…だから、明日の朝は二人で舟に乗って
この空気感を体験させてあげたいんです。何て言うのかしらね~楽しみです・・・

二人の会話が神風に乗って、何と無くそんな風に聴こえて来たような…⁈
夏の日の午後だった・・・


「御花」名勝 庭園からの眺め


「御花」西洋館



マップの上でクリックすると少しだけ拡大できます。



御花が受け継いできたもの


初代柳川藩主 立花宗茂公 甲冑 立花家史料館にてご覧いただけます。


江戸時代、柳川藩主立花家の別邸として御花の歴史は始まります。


5代藩主立花貞俶が側室や子息たちの住まい(柳川城の奥の機能)を柳川城南西部の土地に移し、この場所は「御花畠」と呼ばれ、親しまれるようになり、現在の屋号「御花」へとつながっております。


江戸時代、藩主たちはのびやかで季節の花々が咲き誇るこのお屋敷で、家族と共に娯楽を楽しんだり休息を取ったりして過ごしていたことでしょう。


明治時代になると立花家は伯爵家となり、14代当主立花寛治が「松濤園」「西洋館」「大広間」「御居間」「家政局(お役間)」「門番詰め所」等、現在も残る御花の姿の基礎を築きました。


御花は維新、戦中戦後の混乱期を乗り越え、料亭旅館として姿を変えた後も変わらず柳川藩主の末裔、立花家が運営をしております。だからこそ、御花の歴史文化は今も途絶えることなく生き続けています。



立花家、400年の物語



立花宗茂が柳川城主となったのは、今からおよそ400年前のことです。それ以来、立花家は柳川と共に歴史を紡いでまいりました。ここでは立花家400年の歴史のなかでも特に重要な5人の人生と共に柳川と共にあり続けた立花家の歴史を紹介します。


立花宗茂 ―安土桃山時代―


初代柳川藩主 立花宗茂公


豊臣秀吉の命を受け、戦国武将立花宗茂が柳川城に入ったのは1587年のことでした。


宗茂は九州の大名大友家の一家臣でしたが、秀吉に武勇武功を認められ大名に取り立てられました。宗茂が優れていたのは戦だけではありません。優れた為政者としての顔も持ちあわせていたため、柳川の人々からの信頼も厚かったようです。


宗茂は関ヶ原の戦いで西軍側についたため、領地を追われることとなります。柳川城の開城を迫られた際、「自分たちも戦うので出て行かないでほしい」と涙ながらに訴える領民たちに対し、「戦乱に巻き込みたくない」と宗茂はすぐに開城を決断したといいます。


その後宗茂は浪牢生活を経験しますが、豊臣時代の武功やその人柄を徳川幕府に認められ、柳川藩主として復活を果たします。関ヶ原の戦い以降、領地を追われた後に旧領を回復することのできた大名は、立花宗茂ただひとりです。


立花貞俶 ―江戸時代―



江戸時代中期5代藩主立花貞俶は、享保の大飢饉の際、幕府に給金を求めるなど柳川の人々の暮らしに寄り添う優れた藩主でした。


貞俶の治世に、側室やその子息の住まいが城の南西部の土地に移されます。
御花畠と呼ばれていたその場所に柳川城の二の丸機能を移してきた御屋敷は、
柳川の人々から「御花」の愛称で呼ばれ親しまれました。
最後の藩主になると、柳川城の本丸から御花屋敷に住まいを移しました。


立花寛治 ―明治時代―



明治時代、武士の世が終わると立花家は伯爵家になりました。


立花家14代当主立花寛治が現在の「御花」の基礎となる邸宅を整備しました。
寛治は東京で学んだ農学の知識を活かし、筑後地方の農業振興のために私財で中山農事試験場をつくります。試験場ではあらゆる果実や野菜の種を集め試験栽培を行いました。


また、地域社会とのつながりを大切にし、柳川全体の発展のために尽力し続けました。
寛治の農業振興への想いは、息子である15代当主鑑徳へと引き継がれ、昭和初期に鑑徳が
開いた蜜柑園「橘香園」として今に続いています。


立花文子と和雄 ―戦後―



明治43年立花伯爵家に生まれた文子は、明治、大正、昭和、平成という立花家400年の歴史のなかでも特に変化の激しい時代を生き抜きました。


伯爵家の娘として使用人に囲まれて育ち、24歳で16代当主となる和雄と結婚。皇室の林野管理をおこなう「帝室林野局」で働く和雄の転勤で、北海道や木曽で主婦として暮らします。華族の多くの女性は、使用人のいる家に嫁ぎましたが、文子は使用人を置かず、掃除・洗濯・料理・買い物をすべて自分でこなしました。


戦後、旧華族たちが農地改革 や財産税、相続税で困窮するなか、立花家当主となった和雄と文子は柳川に戻り、旧伯爵邸を利用して料亭業を営むことを決意します。


料亭旅館「御花」の誕生です。


経営が軌道にのるには10数年の歳月がかかりましたが、現在の御花は柳川の観光の拠点となり、大名文化を今に伝える文化施設として多くの人々に親しまれています。


そして今



関ヶ原の戦いで領地を手放し、20年後再びこの柳川に戻ってきた初代柳川藩主 立花宗茂。


第2次世界大戦後、華族制度が廃止になってもこの御花だけは手放さず、料亭旅館として商いを始めることでこの御花を残した16代和雄と文子。


そんな先祖代々の類まれなる努力といつの世も御花を愛してくださるみなさまのおかげで、約300年経った今でも御花は立花家そして柳川と共にあり続け、今も歴史の途中を歩み続けています。


現在はこの掘割に囲まれた全敷地7,000坪が「立花氏庭園」の名称で国の名勝に指定されております。


そして、中でも「松濤園」「西洋館」「大広間」「御居間」「家政局(お役間)」「門番詰め所」といった、約100年ほど前の伯爵邸の姿をそのままに留める近代和風建築は、日本に現存する文化財として、今や大変稀有な存在になりました。


「人、そして文化が今も息づいている」そんな軌跡を振り返ると、日本の未来にこの場所を途絶えさせてはならないと改めて強く思います。


わたしたちはこの先の日本の未来に「御花」としてあり続けられるよう、立花家の家族の物語、歴史そして文化財の魅力を、様々な体験を通して肌で感じて頂けるような場所として、これからもあり続けてまいります。



柳枝垂れる堀端に立派な歌碑が見えてきました。

“色にして老木の柳うちしだる我が柳河の水の豊けさ”柳川育ちの詩人北原白秋のものです。

毎年11月、柳川では白秋の命日を偲ぶ白秋祭水上パレードが行われます。

堀端には篝火が焚かれ、水面には行燈が浮かび、白秋作の歌が舟上のステージで披露されます。

幻想的な柳川の秋の夜です。



立花家18代 立花千月香より

100年後も、その先もずっと御花がここにあること



100年後も、その先もずっと御花がここにあること


御花の大広間から松濤園をゆっくりと眺めていると、いま自分がいる場所がはたしてどの時代なのか、分からないような感覚になることがあります。私はその瞬間がとても好きで、御花が300年もの間ここにあり続けてきたその誇りを感じます。


そんな建物たちと一緒に育ったからか、自然と「100年」という単位で物事を考えることが当たり前になっています。100年後もこの場所に御花を受け継いでいくこと、それが私の使命です。そして御花にはどことなく「良い気」に包まれており、心やすらぐ空気が流れています。


初めて訪れたお客様に「なぜか懐かしく感じる」久しぶりに訪れてくださるお客様から「帰ってきたんだなぁと感じる」といった感想をいただくことが多く、本当に嬉しくなります。それは、この御屋敷のはじまりがお殿様の政務の疲れを癒し、家族とともに過ごす「家」だったからこそ醸し出せる温かみなのだと思っています。


これからも、そして100年後も、御花は沢山の方々にとって「帰ってきた」と思える場所であり続けたいと思っています。

                   柳川藩主立花邸 御花

                   代表取締役社長 立花千月香




立花氏庭園


松濤園



現在の「松濤園」は、明治43年に14代立花寛治によって整えられました。
その呼称のとおりクロマツに囲まれた池庭で、座敷からの眺望を楽しむ観賞式の庭園です。


園内には見事なクロマツ,庭石,石灯籠があり,沓脱石の巨石は旧天守閣の台石を移したといわています。園池のなかの二つの島と多数の岩島および水面は、冬場には飛来する野鴨が群れ遊ぶ景観を見せます。


池庭に大小の中島や岩島を配して,大海をあらわし、その周囲にクロマツが繁るおおらかで優美な庭景を見せる名園として、昭和53年に国の名勝に指定されました。また、平成23年には松濤園を含む敷地全体が「立花氏庭園」として国に名勝指定されています。


大広間



明治42年から43年に建てられた本館は、当時の宮家、富豪たちの間で流行った「西洋館の正面玄関に続く日本建築の大広間」という形式をそのまま残しています。


「松濤園」を臨む100畳の「大広間」は、中の間、三の間の畳を取り除くと、能舞台として使えるようになっています。「大広間」は披露宴会場をはじめ、パーティー、宴会場としてもご利用いただけます。


西洋館



明治43年に立花家の迎賓館として建てられた、白亜の西洋館。


当時は要人たちを迎える園遊会が催され、その美しさは、明治の面影を今に伝える柳川情緒のシンボルとなっています。


当時すでに自家発電所を設け、輸入品のシャンデリアや電気器具を使っていました。今もランプシェイドなど多くの設備が当時のままに残されています。


現在は結婚式場として、また、パーティー会場としてもご利用いただけます。


立花家史料館



戦国武将・立花宗茂を藩祖とする柳川藩立花家伝来の美術工芸品、いわゆる大名道具の展示を通じて、約400年の立花家の歴史文化を紹介しています。


旧大名家が所蔵する美術工芸品の多くは、明治維新や第二次世界大戦後の混乱期に流失し、今日までまとまった形でコレクションが維持されている例はそれほど多くありません。


館内には柳川藩主家時代、そして近代伯爵家時代にわたる立花家の美術工芸品を収蔵。


国宝1件、重要文化財3件を含む約3万点の歴史資料は、近世大名立花家の誕生から現在まで400年以上もの長い時間をかけて形成され、連綿と受け継がれてきた貴重な歴史史料です。


大廣間 御前能



殿様屋敷で堪能する「能」公演



大名家の武家文化を表す「能」を殿様屋敷で


⼤名家にとって能は欠かせないものでした。
能は武家⽂化を表す「式楽」(公式の場での音楽)としても定められていたからです。


大名屋敷には能舞台が設けられ、公式の行事の際には能が演じられました。
殿様屋敷として建てられた御花にも、現存する明治期の建物の中に能舞台があります。


御花は「大名家の嗜み」をより間近に感じることができる場所です。


柳川藩主であった⽴花家も能を⼤切に継承しており、代々「喜多流」の能を守っていました


かつて、殿様が嗜んでいたような体験をあなたに。
御花の能の歴史が再び紡がれていく、特別な一夜をお届けいたします。


明治の頃より受け継がれてきた文化財の「能舞台」



元々殿様屋敷であった御花では、現存する明治期の建物の中に能舞台が残っており、大切に継承してまいりました。


文化財建築と舞台、そして名勝庭園が一体となった、迫力のあるお能を間近にお楽しみいただけます。


歴代藩主により愛されてきた「能」



柳川藩主であった⽴花家も能を⼤切に継承しており、代々「喜多流」の能を守っていました。


多くの能⾯や能装束等が残っていることからもいかに能が⼤事だったかが分かります。

(公財)立花家史料館蔵


宿泊


松濤館(ご宿泊)



日本庭園「松濤園」を望む料亭旅館「松濤館」。

ゆったりとした和・洋室でおくつろぎください。


お食事


料亭 集景亭(個室)



明治時代、 立花伯爵とその家族の居室であったお部屋をそのまま料亭の個室として使用しています。


柳川の旬の食材を使った季節の会席料理・鴨料理(冬期)などを庭園を眺めながらご賞味ください。ご結納、お節句・長寿などのお祝、ご法事などにもご利用いただけます。


料亭 集景亭ダイニング



料亭「集景亭」ダイニングは、料亭のおもてなしを、気軽に愉しんでいただきたい。柳川の豊かな自然に育まれた食文化を、もっと身近に感じていただきたい。そんな想いから生まれたお食事処です。四季の移ろいを感じながら、ゆったりとしたひとときをお過ごしください。


伯爵家の優雅な時間を


「集景亭」という名称は、柳川藩3代藩主立花鑑虎が隠居後の住まいとして建てた別邸の名前からとられています。


現在の建物は明治時代立花伯爵家の人々が居室として使用したものです。
名勝「松濤園」の眺めと共に、季節の食材を活かした会席料理をご堪能ください。


お料理


季節の会席



地元の旬の食材を使い、一皿一椀、心を込めて作る季節感あふれる会席料理です。月替わりでお品書きが変わります。

季節の会席 昼 6,050円〜/夜 8,470円〜(税込/サービス料込 10%)

※ご予算にあわせてご用意させていただきます。


お料理の内容(全12皿)


先附・前菜・造里・吸物・煮物・焼物・凌・替鉢・御飯・止椀・香の物・デザート

※上記のお品書きは8,470円〜(税込/サービス料込 10%)の内容です。

※ご飯は鰻のミニセイロ蒸しへ変更できます。追加料金1,210円(税込/サービス料込 10%)


立花伯爵家が愛した「鴨鉄」
〜旧大名家が誇る、おもてなしのジビエ料理〜



御花では鴨の狩猟解禁に伴い、有明海に飛来するマガモを、伯爵家で愛されてきた独自のレシピで調理する「鴨鉄」(鴨鉄板焼き)を提供しております。


野生のマガモ肉は、鳥の肉の中でも特に美味であると言われる高級食材です。
カモ肉は古くから日本で好まれていますが、現在はマガモとアヒルを交配させた「アイガモ」が用いられるばかりで、野生のマガモ肉によるジビエ料理を口にできる機会は希少です。


御花の「鴨鉄」は、有明海での狩猟を趣味とした立花家15代当主・立花鑑徳伯爵が、自らの手で調理して、皇族の方々にも召し上がっていただいたこともある、こだわりのレシピによるものです。


「薄く切ったカモ肉を薄醤油につけておいてさっと鉄板であぶる。」焼きすぎると肉が締まってしまうため、焼き色がつく頃が一番美味しくカモ肉を味わえます。噛めば噛むほど溢れ出る野趣の旨み。ほかでは堪能できない特別なジビエ料理は、この時期ならでは、「御花」ならではの殿様料理です。


時期

12月1日~2月15日まで

ご予約

お電話にてご予約承っております。

お電話:0944-73-2189

料金:コース料理14,000円(税込・サービス料込)


お子様のお料理について

2種類のお子様用メニューをご用意しております。


おまかせお子様ランチ



1,815円(税込/サービス料込 10%)

(ご参考)対象年齢:幼児〜小学校低学年くらい


おまかせお子様コース



4,840円(税込/サービス料込 10%)

(ご参考)対象年齢:小学校中学年〜高学年くらい



          柳川名物

        「うなぎのせいろ蒸し」について



うなぎは日本の食材歴史として古く「万葉集(7〜8世紀)」の中にも登場するほど、日本でもなじみ深い食材となっています。


なお、うなぎ料理と一口に言っても、全国には「うな重」や「うな丼」、名古屋では「ひつまぶし」など全国でさまざまな食べ方をされており、柳川においては「うなぎのせいろ蒸し」と言う調理法で食されております。


「うなぎのせいろ蒸し」の起源は、「元吉七郎兵衛」が1600年代後半の江戸時代中期に「柳川の人の口に合う料理を!」と考案したのがきっかけだといわれています。柳川名物「うなぎのせいろ蒸し」は、柳川では元来「うなぎ飯」と呼ばれてきました。


柳川の人々に親しみ深い「地元九州のあまい醤油」を使用し栄養価の高い「うなぎ」食材を食べやすくするため、ご飯にタレをまぶし、ふっくらと蒸し上げる調理を行い地元を中心に筑後地区に広まったとされています。


そして戦後、日本の観光ブームに乗り、観光客到来と共に呼び名を「うなぎのせいろ蒸し」と定め、柳川の郷土料理・観光名物料理として本格的に販売を進め、現在の柳川では年間約300トン約120万匹を提供しています。


ご宿泊プランについて


お能の会の終了は21時ごろ。夜はそのままご宿泊もおすすめです。


文化財と一体となったお能、そしてご夕食をお楽しみいただいた後は、公演後も文化財エリアをお散歩したり、早朝の大広間や松濤園をお楽しみいただけます。


お屋敷能で感じた想い、余韻を翌日までぜひ堪能いただけたらと思います。

※ご宿泊プランは公演チケット込みとなっております。


殿様屋敷で堪能する「能」公演


⼤名家にとって能は、武家⽂化を表す「式楽」としてとても⼤切な儀式でした。


かつて、殿様が嗜んでいたような体験を再現し、⽴花家と能の歴史的な背景を感じながら、特別な⾮⽇常の一夜をお届けいたします。


本プランは年に一度、御花の大広間が能舞台になる日。限定プランとなっております。

□プラン内容□

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スケジュール(おおよその⽬安になります)


・16時ごろ〜:⽴花家18代 ⽴花千⽉⾹による館内案内(自由参加)

 御花の代表を務める立花千月香による館内案内を行います。

 また、能舞台にて、能公演のお席も優先的にお選びいただきます。


・お能鑑賞:18:00~19:20(予定)

 演目:杜若のダイジェスト版をご覧いただきます。

 また、お能の解説や、宿泊プランのみの少人数制のため、能舞台に上がる体験や、

 能楽師さんに質問してみたり等、より能の文化を嗜むひとときをご用意いたします。


・夕食:19:30〜21:00

 能の演目にちなんだお料理を含む、会席料理のコースとなります。

 地酒等を含む選りすぐりのドリンクをオールインクルーシブでご用意いたします。

 ※会場は日本庭園松濤園を臨める2階のパーティ会場がご夕食会場となります。


・朝食 

 有明海産の一枚海苔、季節の焼き魚、卵料理、明太子など

 朝から満ち足りた気持ちになっていただけるよう心を込めてご用意致します。

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□コーヒーラウンジ


松濤館1Fのカフェをご自由にご利用いただけます。

筑後の選りすぐりのドリンクを愉しみながらご覧いただけます。

お能鑑賞後や、翌朝のお散歩帰りなどにご利用ください。


・ご利用時間 21:00~23:00/6:00~10:00


□お風呂

「芍薬の間」・「黒椿の間」にご宿泊のお客様は館内の貸切風呂をご利用頂けます。


□立花家史料館見学チケットプレゼント

国宝1点、そして福岡県の半分の重要文化財を保有している史料館です。

歴代の藩主や姫が愛してきた貴重な収蔵品をご覧いただけます。

※営業時間:10:00~16:00


さらに、詳細につきましてはお電話にてお問い合わせください。


御花

〒832-0069 福岡県柳川市新外町1
代表   電話: 0944-73-2189
宿泊直通 電話: 080-2700-0887
     FAX :0944-74-0872



次回に続く・・・



鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使


協力(順不同・敬称略)

御花 〒832-0069 福岡県柳川市新外町1 電話: 080-2700-0887

三柱神社 〒832-0826 福岡県柳川市三橋町高畑町323-1 電話:0944-72-3883

紅山子(こうざんし)


※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。



アーカイブ リンク記事をご覧ください。


太宰府天満宮


太宰府天満宮曲水の宴


太宰府天満宮とは

天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮と称えられ、「学問・至誠・厄除けの神様」として、ご崇敬を集めています。


大宰権帥として太宰府で亡くなった菅原道真公の廟をはじめとします。天満宮安楽寺とも言われました。平安時代には大陸由来の曲水の宴などの行事が行われはじめ、現代に伝わるものもあります。文人としても崇敬され貴族や武士が参詣しました。文芸の聖地となり、連歌などが奉納され続けています。また、唐代の書籍である翰苑の平安時代の写しが残り、鎌倉時代には高麗国使高柔(コユ)が参詣して詩を奉納しています。本殿が国重要文化財に指定されており、境内は伝統行事と相まって古代の雰囲気が感じられます。


太宰府天満宮は、日本の歴史上、最も有名な文人として知られる、菅原道真公を祀る霊廟です。京都天満宮の総本社です。


菅原道真公(845-903年)は、幼いころから詩歌に才能をみせ、のちに天皇や大臣に講義を行う「文章博士」となりました。また菅原家の私塾「菅家廊下」を主宰し、朝廷における文人社会の中心でもありました。政治家としても優れ、宇多天皇の信任をえて要職を歴任します。遣唐使の廃止も道真の進言によるものとして知られています。そして醍醐天皇のもとで右大臣にまで登りつめました。


901年、時の左大臣藤原時平の讒言により、天皇の交替をもくろんだとして罪をかけられ、道真公は大宰府へ左遷されます。そして903年2月25日、59才で亡くなりました。遺言により大宰府で埋葬されました。後に時平の讒言を知った朝廷は、菅公の名誉挽回に努め、正一位太政大臣を追贈。菅公は天満大自在天神として、人々の尊崇を集めるようになっていったのです。


はじめ、「四堂」(あるいは大野城がおかれた「四王寺」山)のほとりに埋葬する予定でしたが、その途中、亡骸を乗せた御車の牛が突然動かなくなります。牛がどうしても動かないのを人々は不思議に感じ、そこを墓所とした、と伝えられています。


905年、道真公の門弟だった味酒安行が、墓所に廟を建て、のちに安楽寺を創建します。そして919年に醍醐天皇の勅令によって社殿が完成したと伝えられています。その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。 長い年月、道真公へのご崇敬は絶え間なく続き、御墓所でもある太宰府天満宮は全国約12,000社ある天神さまをお祀りする神社の総本宮と称えられ、今日でも多くの参拝者が訪れています。


菅原道真公は天満大自在天神として、人々の尊崇を集めるようになっていったのです。


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「学問・至誠・厄除けの神様 太宰府天満宮は天神さま(菅原道真公)をお祀りする全国約12,000社の総本宮(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3956050



太宰府天満宮 御本殿


右には飛梅、左には皇后梅が配されています。


御本殿

919年(延喜19年)、左大臣藤原仲平が勅によって社殿造営を行いました。数度の炎上を経た1591年(天正19年)に小早川隆景が再建します。


五間社流造り、檜皮葺で、正面には唐破風状の向拝が付く、桃山時代の豪壮華麗な様式で、右には飛梅、左には皇后梅が配されています。


現在国の重要文化財として指定されています。 右に配される飛梅は、大宰府へ左遷された際に菅公を慕って一夜のうちに京から空を駆けてきたという伝承をもつご神木で、千年以上の時を経た今も毎年その清香の華を咲かせます。


飛び梅ほか6000本も植えられている梅をはじめ、大樟や花菖蒲など、菅公を祀る境内は豊かな緑と花に包まれ、四季ごとに美しく彩られます。  


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「太宰府天満宮御本殿は五間社流造り、檜皮葺で、正面には唐破風状の向拝が付く、桃山時代の豪壮華麗な様式(その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4023347



100年目の弘前さくらまつり
花びらが濠の水面を流れていく「花筏(はないかだ)」



1918年(大正7年)に第1回観桜会としてはじまった弘前さくらまつりも、今年で100年目を迎えます。今年の弘前さくらまつりは、通常会期(4月23日~5月5日)を拡大し、4月22日(土)~5月7日(日)で開催することになりました。


弘前に桜前線がやってくるのは、4月下旬ころ。華やかな桜が老松と見事なコントラストを描き、弘前公園の中で美しく咲き競います。 人々はその桜の下で花に酔い、酒に酔い、津軽の春を満喫します。 夜になればライトアップされた桜がお城をめぐる濠の水面に浮かび、幻想的な風情を醸し出し、その美しさは訪れる人々を魅了します。


現在、公園内には、ソメイヨシノを中心に、シダレザクラ、八重桜など、約50種類2600本の桜が咲き誇ります。 公園内の桜は、ソメイヨシノの場合、樹齢100年を超えた老木でも1つの花芽から咲く花の数が4個から5個と多いのが特徴で、 満開の枝をじっくり眺めてみると花にボリュームがあり、どっしりと咲く優美な桜は、日本一の徹底した管理から生まれています。


また、弘前公園の桜は散り際まで人々を魅了します。 花びらが濠の水面を流れていく「花筏(はないかだ)」、花びらで濠を埋め尽くすほどの「桜の絨毯」も話題となっています。


弘前城は日本一の桜の名所です。 特に夜桜はライトアップと相まって、まるで幻想の世界です。 実は美しく咲き誇る弘前城の桜には秘密がいっぱいあるそうですよ。是非、出かけられて確かめて見られては如何ですか!


(詳細は下記のURLよりご覧ください。)


ZIPANG TOKIO 2020「『みちのく五大雪まつり 第41回 弘前城雪燈籠まつり』と『100年目の弘前さくらまつり』」のご案内
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/1981932



※現在、2400件余の記事掲載、下記のサイトからご覧ください。


ZIPANG-9 TOKIO 2020 (VOL-9)
https://tokyo2020-9.themedia.jp/


ZIPANG-8 TOKIO 2020 (VOL-8)
https://tokyo2020-8.themedia.jp/


ZIPANG-7 TOKIO 2020 (VOL-7)
https://tokyo2020-7.themedia.jp/


ZIPANG-6 TOKIO 2020 (VOL-6)
https://tokyo2020-6.themedia.jp/


ZIPANG-5 TOKIO 2020 (VOL-5)
https://tokyo2020-5.themedia.jp/


ZIPANG-4 TOKIO 2020 (VOL-4)
https://tokyo2020-4.themedia.jp/


ZIPANG-3 TOKIO 2020 (VOL-3)
https://tokyo2020-3.themedia.jp/


ZIPANG-2 TOKIO 2020(VOL-2)
https://tokyo2020-2.themedia.jp/


ZIPANG TOKIO 2020 (VOL-1)
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/



ZIPANG-9 TOKIO 2020

日本の精神文化と国土の美しさについて再発見 その1. 全世界との情報の共有化 その2. 偏り、格差のないローカリティの尊重! その3. 美しきものへの学び、尊敬、関心を高める教育と推進

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