国宝・久能山東照宮夜間特別拝観 「天下泰平の竹あかり 2024 」
【同時開催】徳川歴代将軍名宝展
久能山の歴史
久能山東照宮
史跡久能山
太古久能山は日本平と共に平野でありましたが、その後隆起によって出来たもので、昔は日本平と続いていましたが、長い年月の間に浸食作用等のため堅い部分のみ残り現在のように孤立した山となりました。
高さ216mの前面は眼下に駿河湾を見下ろし、東は近くに伊豆半島を西は遥かに御前崎を一望できる雄大な景色が広がっています。
遥か遠い昔、この山は観音菩薩の霊場とされ、観音信仰の聖地でした。
補陀落山久能寺のころ
「久能寺縁起」/ 所蔵:鉄舟寺蔵
久能山の歴史は『久能寺縁起』によると、推古天皇の御代(7世紀頃)秦氏の久能忠仁が初めて山を開き一寺を建て、観音菩薩の像を安置し補陀落山久能寺と称したことに始まります。久能山の名称もここから起こりました。
縁起によると久能寺は平安朝の仏教隆昌と共に多くの僧坊が建てられ、僧行基、伝教大師等を始め多くの名僧知識が相次いで来往し、平安末期から鎌倉初期にかけては、360坊、1500人の衆徒をもつ大寺院となったといいます。また、国宝の『久能寺経』なども伝来しており、都との縁も深かったことがうかがわれます。
さらに、源頼朝は伊豆国内から所領を寄進、源義経も薄墨と呼ばれる笛を奉納したなどとも伝えられています。
また、鎌倉時代の紀行文である『海道記』には山上山下にわたって300余の禅坊が建てられてあったことが記されており、鎌倉時代前後にかけての久能寺はまさに東海道屈指の寺院として栄えていました。
ところが、鎌倉時代中期の嘉禄年間(1225年~1227年)山麓の失火によって類焼し昔の面影はなくなりました。
久能城のころ
「久能山総絵図」(部分)/ 所蔵:久能山東照宮博物館蔵
永禄11年(1568年)には、武田信玄公は当山が要害であることを聞き、久能寺を近くの
北矢部(静岡市清水区、今の鉄舟寺)に移し山上に城砦を設け久能城と称しました。
天正10年(1582年)武田氏が亡びて駿河国一帯が徳川氏の領有するところとなったので
久能山も自然と徳川氏のものとなりました。慶長11年榊原清政が城主となり、次いで其の子照久がそのあとを継ぎました。
徳川家康公は久能山が要害の地である事に早くから着目し、薨去の際、照久に「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言われたと伝えられています。
東照宮の創建
三百年祭の様子(徳川家御一門)
かくして元和2年(1616年)4月17日徳川家康公の薨後、御遺命により御遺骸を久能山に
埋葬、久能城を廃止し東照宮(はじめは東照社と称しました)が創建されました。
特に50年毎の神忌に当たっては式年大祭を斎行し平和への祈りを捧げてまいりました。
そして、平成27年(2015年)には御鎮座四百年大祭を斎行し現在に至ります。
このように、久能寺建立よりおよそ1,400年余りの悠久の歴史を有する久能山は、古くから
多くの人々の信仰を集め様々な歴史を刻んできたかけがえのない聖地といえるでしょう。
久能山東照宮
9月から夜間拝観 天下泰平の竹あかり2024
【同時開催】徳川歴代将軍名宝展も-静岡
静岡市駿河区根古屋の久能山東照宮で夜間特別拝観「天下泰平の竹あかり2024」を開催します。徳川家康公が駿府の地で築いた「天下泰平」をテーマに、竹あかりとライトアップによる幻想的な雰囲気の中でのご参拝を楽しめます。久能山東照宮博物館で開催中の「徳川歴代将軍名宝展」も、夜間特別拝観開催日は夜間もご覧いただけます。ぜひこの機会に特別展示もあわせてお楽しみください。
①国宝・久能山東照宮 夜間特別拝観 「天下泰平の竹あかり 」
1.概要
久能山東照宮の境内全域において「天下泰平」をテーマに竹あかりとライトアップによる
荘厳かつ幻想的な雰囲気の中でのご参拝をお楽しみいただけます。
※1日800名限定
〈主催〉
久能山東照宮、静岡鉄道
〈共催〉
静岡新聞社・静岡放送
2.日時
〈期間〉
9月13日~11月30日の金土+祝日前の日曜日のみ計26日間
※11月22・23日は東照宮神事により、開催しません。
〈時間〉
18時00分~21時00分(※最終入場は20時00分まで)
3.開催場所
久能山東照宮 (静岡市駿河区根古屋390)
※ご入場は日本平ロープウェイ側からのみとなります(久能山下からのご入場は不可)
4.その他
本企画で境内を彩る竹あかりは、市内の放任竹林問題に取り組む団体「アカリノワ」が制作したもので、イベント終了後には竹炭にして、農地の土壌改良に使用しています。
(炭化による温室効果ガス排出抑制、資源の再利用)
②国宝・久能山東照宮(博物館) 「徳川歴代将軍名宝展」
1.概要
家康公所用の「白檀塗具足」をはじめとする歴代15代将軍の甲冑を特別展示します。
「天下泰平の竹あかり」開催日は、特別に夜間も開館いたします。ぜひこの機会に、
特別展示をお楽しみください。
※特別展の詳細については 久能山東照宮博物館にお問い合わせください。
☎054-237-2437
2.日時
〈期間〉
2025年 9月6日(金) ~ 11月30日(土)の全日開催
〈時間〉
9時00分~17時00分 ※夜間特別拝観開催日は同時刻にて夜間も特別に開館しています
3.開催場所
久能山東照宮博物館 (静岡市駿河区根古屋390)
久能山東照宮について
久能山東照宮は、徳川家康公をご祭神としておまつりする全国東照宮の創祀です。
徳川家康公
徳川家康公は、天文11年(1542年)12月26日三河国岡崎城(愛知県岡崎市)にお生まれになり、あらゆる艱難辛苦の末、戦乱の世に終止符を打ち、江戸時代260余年にわたる世界に其の比を見ない「泰平の世」の礎を築かれ、学問、産業、文化の基礎を確立し近世日本の発展に偉大な功績を残されました。
晩年は大御所として駿府城に在りましたが、元和2年(1616年)4月17日、波乱に満ちた75年の生涯を閉じられました。
徳川家康公の遺言
「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ」
静岡 久能山東照宮
上野 増上寺
岡崎 二十三番札所 成道山 松安院 大樹寺
日光東照宮
徳川家康公は生前、家臣に対し、自分の死後について「遺体は駿河国の久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ、八州の鎮守になろう」(『本光国師日記』より)との遺言を残されました。
この御遺命により御遺骸を久能山に埋葬し、その地に2代将軍秀忠公の命により久能山東照宮が創建されました。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(順不同・敬称略)
久能山東照宮
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください。
増上寺は、浄土宗の七大本山の一つです。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建されました。
その後、1470(文明2)年には勅願所に任ぜられるなど、増上寺は、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与してきました。
ライトアップされた増上寺三解脱門
大本山増上寺(東京都港区)は、1622年に建立された国指定重要文化財・三解脱門の楼上を11年ぶりに特別公開しています。また、10月12日(水)から18日(火)までの間、建立以来400年で初めてとなる夜間公開を実施。ライトアップされ、夜の街並みに浮かび上がる朱色の三解脱門の中を見学することができます。さらに、10月15日(土)には建立400年を記念した法要を執り行います。
大本山増上寺三解脱門は1622年に建立されて以来、増上寺の顔として多くの人々に親しまれてきました。増上寺の諸堂宇のほとんどが災害や戦災により焼失しているなか、三解脱門は江戸初期から現存する貴重な国指定重要文化財です。東京都で最も古い木造建築の一つでもあります。
楼上には、都指定有形文化財の釈迦三尊像及び十六羅漢像等が祀られており、通常目に触れることのない由緒ある仏像を拝観できるほか、外に目を向ければ、江戸時代の人々が眺めたように門前の街並みを見渡すことができます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-6 TOKIO 2020【夜間公開史上初】大本山増上寺三解脱門(国指定重要文化財)建立400年記念特別公開・記念法要について
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38081267
200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて神社と寺院を巡る【三河】
岡崎 大樹寺から岡崎城を望む
大樹寺 山門(県指定文化財)/ビスタライン
寛永18(1641)年に三代将軍家光公によって建立されました。楼上には後奈良天皇の勅額「大樹寺」(重要文化財)が掲げられ、釈迦三尊像と16羅漢が安置されています。本堂からは山門、総門を通して岡崎城を遠望できる「ビスタライン」は大樹寺の見どころのひとつで、この景観の保護は市の条例で定められています。
第二十三番札所 成道山 松道山 大樹寺【浄土宗】
本尊
木造阿弥陀如来坐像
お地蔵さま情報
木造地蔵菩薩立像(春日局の持仏)/場所:本堂内左手の厨子
創建
応仁元(1467)年
由緒・歴史
松平家、徳川将軍家の菩提寺として知られ、松平4代・親忠(家康公より5代前の先祖)によって創建されました。親忠は応仁元(1467)年、井田野の合戦で勝利し、敵味方の区別なく戦死者を葬った塚を「千人塚」と呼びましたが、その後、悪病など災いが多く起こったため、仏堂を建てて勢誉愚底上人7日間の別時念仏を行い供養しています。
この念仏堂は後の西光寺で、その後、親忠は菩提寺として大樹寺を建立し、愚底上人を開山としました。
家康公は19歳で桶狭間の合戦に出陣しましたが、大将である今川義元の討死で敗軍の将となり、逃げ帰った大樹寺で自刃しようとしました。
しかし住職の登誉上人によって生きる意味を諭され「厭離穢土欣求浄土」の言葉を授かって座右の銘とした後、幾多の試練を乗り越えて天下統一の大偉業を成し遂げたことから立志開運の寺とされます。
大樹寺 徳川家康公
〜古から✹むらさき✹色の
藤川宿(岡崎市)は天下人家康の生誕地 〜
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」 芭蕉
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020速報“おかまいり”知ってますか?200 年前の人々と同じ道を、同じように歩いて神社と寺院を巡る!
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/11142118
運慶・湛慶作『梵天・帝釈天・聖観音』
西暦600年代(奈良時代)創建の古刹【 瀧山寺 】
国指定重要文化財 運慶・湛慶の仏像彫刻「梵天・帝釈天・聖観音」
1300年に渡る悠久の時の流れ
瀧山寺はおよそ600年代(奈良時代)に創建された古刹で、山号を「吉祥陀羅尼山」、院号を「薬樹王院」といい、天台宗の寺院として建てられました。
熱田大宮司家、源頼朝の鎌倉幕府、歴代の足利氏、そして徳川家の恩恵を受け、文化発信の地として三河地方で重要な役割を担ってきました。
瀧山寺歴
瀧山寺の始まりは薬師如来から
吉祥陀羅尼山薬樹王院と号し、本尊は薬師如来。瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)
奈良時代の伝説的な山岳修行者、小角(おづぬ)が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まると言われる。
小角は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置しました。
比叡山の仏泉上人永救が奮う
やがて400年の月日が流れ、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営しました。
上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。
その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人に話は移っていく。
鎌倉幕府の恩恵で最盛期に
源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。
その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎える。
戦乱の世が衰退をもたらす
その後、貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。また、室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していく...
国指定重要文化財「瀧山東照宮」
日光・久能山と並び日本三大東照宮の一つ
徳川家の信仰と擁護により再興
そのさらに400年後の江戸時代。瀧山寺は再び中興を見せる。比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光公に見いだされ、寛永十八年(1641年)家光公より朱印地を拝領する。正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立されました。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「運慶・湛慶作『梵天・帝釈天・聖観音』多くの文化遺産を守り、伝え続ける 西暦600年代(奈良時代)創建の古刹【 瀧山寺 】」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2895477
役行者の衆生済度の菩薩行を伝える吉野【櫻本坊】
役行者神変大菩薩
今からおよそ1400年前、1つの魂が大和の国の高加茂(たかかも)という家を選び舞い降りてきました。
父は高加茂朝臣(たかかものあそん)で、加茂役君(かものえだち)または大角(おおづぬ)と呼ばれ、母は渡都岐比売(とときひめ)又は白専女(しらとうめ)・刀自女(とらめ)と呼ばれました。
日本は大化の改新(645)の前夜、社会も人心も混迷の嵐の中。
役小角は、幼名を金杵丸(こんしょまる・母がある夜、天空に浮かぶ金色に輝く金剛杵が静かに降りてきて口からはいる不思議な夢をみたという)と名乗り、幼い頃より叔父 願行(がんぎょう)上人より仏法を学ばれたという。
17才で葛城山に入り岩窟において孔雀明王の秘法を受け、生駒山では人々に危害を加え苦しめていた鬼のような夫婦 前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)を諭し改心させ弟子としました。
そして熊野本宮、音無川より大峰山に入山、金峰山(山上ヶ岳・標高1721m)山頂において世界の平和とすべての魂の幸福を願い一千日の間修行を積まれました。そして衆生済度のご本尊金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)をご感得(祈り出)されたのでした。
仁王門と桜元 櫻本坊
櫻本坊縁起
万葉の時代 天智10年 … 天智天皇の弟、大海人皇子は吉野離宮日雄殿にてご修行されておりました。
激動の時代の中で、「野に放たれた虎」とも称された日々のこと。
ある冬の夜、吉野の山の中に満開の桜がみごとに咲き誇る夢をごらんになりました。
翌朝めざめられ、前方の山を見上げると、冬だというのに夢そのままに一本の桜が美しく堂々と咲いていたのです。 大海人皇子は不思議に思われ、すぐに役行者の高弟 角乗に
夢判断を命じました。
角乗とは「宇宙の皇子」と称された役行者を師とし、大峰山で行を積む高徳の僧です。
角乗は謹んで答えました。
「桜の花は日本の花の王です。この夢は殿下が天皇の位につかれるよい知らせでしょう」と
翌年、壬申の乱に勝利し、大海人皇子は帝位につかれ、天武天皇として即位されました。
天皇は大変およろこびになり、夢に現れた桜をもとめ吉野の山に登られました。
そして、夢に見た櫻 ( 天武天皇 「夢見の桜」 ) と出会い、そのもとに道場を建立、
「櫻本坊(さくらもとぼう)」と名づけ、角乗を住職に迎えたのです。
櫻本坊の魅力
厳しい法灯を護り継承された格式ある重厚性と、時代が求める新しい考えを取り入れ、その時・その場・その人を生かすための「感謝」と「敬意」の精神性が生きづく姿勢は、古き良き伝統と新しい風とが融合した大きな魅力となっています。
そして宇宙の秩序や自然の摂理といった大いなる環境の中で、一人ひとりの魂のかけがえのなさに気づくような…静寂と優しさを観じれるのがうれしい道場。それが櫻本坊です。
また修行体験でふるまわれる精進料理は尊い「火」と「水」「地」から産まれた野菜が「地・水・火・風・空」からていねいに調理され、心も体も浄化される料理といえましょう。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「役行者の衆生済度の菩薩行を伝える吉野【櫻本坊】吉野聖天大祭の開催 (前編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2940021
太陽の峯の山『国軸山』として古来より
~宇宙や自然と調和する~吉野大峰
世界文化遺産「大峯山寺」
櫻本坊の境内から宇宙や自然を見守る、役行者さまと弟子の前鬼、後鬼。
吉野聖天尊は、今から約1350年前に役行者さまが大峰山の最奥、深仙宿の近く聖天の森で
勧請し、まつられた日本最古の聖天さまです。
その後、より多くの皆さまがお参りできるようにと、当山の第2世・角仁(かくにん)住職が吉野山に移され聖天堂を建立、今日に至ります。
聖天(ガネーシャ神)さまは、大聖歓喜自在天(だいしょうかんぎじざいてん)、
或いは大聖歓喜双身天王(だいしょうかんぎそうじんてんのう)と称されます。
シヴァ神(大自在天)と妻パールバティの息子で、縁結び・和合・財宝・学業成就の神として古来信仰が盛んです。
ヒマラヤ山脈の鶏羅山(カイラス山)に住し、九千八百の眷族(けんぞく)を率いて世界と衆生を守護下さいます。
「人身象頭双身」のお姿で、十一面観世音菩薩とご縁が深く、日本ではお厨子の中に秘仏として共に祀られます。
「大日如来最後方便の身、観自在尊慈悲深重の尊体なり」と説かれるように、宇宙の中心・究極の神仏として大慈悲心と共に顕現くださいました。
吉野聖天大祭
そして心からこの天に向かい祈りを捧げるとき、無量の祈願がすみやかに成就する、と説かれます。 櫻本坊では毎年10月1日 に大祭法要が執り行われます。 是非ご参拝ください。
合掌
ご宝号 南無大聖歓喜双身天王(大聖歓喜天にすべておまかせし帰依いたします)
ご真言 オンキリギャクウンソワカ/オンギャクギャクウンソワカ
昨日掲載の「役行者の衆生済度の菩薩行を伝える吉野【櫻本坊】吉野聖天大祭の開催(前編)」をご覧になり「日原もとこ」様から、ご寄稿いただきましたのでご紹介いたします。
『やっと役行者様にお目に掛れました。もっと若ければって言うか、原爆に遭っていなければ、早くから私は奥駆けの道に深く入り込み、今様女役行者になっていた筈です。何故か分からないけど、遥か昔から、 修験道へのあこがれが強く、役行者が時空を超えて自在に空飛び、何処へでも出没する神通力を身につけた話が大好きで、特にお護摩を焚くシ-ンを見るとワクワク痺れてきます。
実は、我がまんだらの里作谷沢(山形県)の最高峰が白鷹山(虚空蔵山)でその脇侍峰が東黒森(金剛界)と西黒森(胎蔵界)であるが故に空海の説く両界曼荼羅の原理を絵に描いた如く実際の環境風土が成立しているのです。
此処に独特の山岳信仰の修行場が存在した、しかも小字の地名=ソフリ(古朝鮮の聖域)とするこんな、偶然とは言えないほどの地形は世界で唯一の存在ではないでしょうか?
開祖は空海ではなく、役行者です。
チベットやブータンでは、宇宙観の構成原理とその意味を絵図によって自身が感得、悟りを開くのです。それを小さいときから瞑想によって描く修行を積み重ねて、高い仏僧を目指し精進し続けています。こうして多くの曼荼羅図が描かれました。
しかし、作谷沢のこの地は言葉も説教もないままに、すでに、リアルな形で実存するのです。』
「まんだらの里は祈りの里」
「祈り」
東北の祈りには二つの意味がある。
ひとつは尊き神仏への奉斎。もう一つは苦しみ、悲しみを耐え抜いた祖霊への鎮魂である。
まんだら世界図
この菱形の中心部の勢至堂は作谷沢小中学校や、公民館(ふれあい自然館)の辺りである。 小さな村にしては異常な数の宗教遺蹟が多く、中世以前は修験道、中世以降は庶民信仰の里として位置付けられた、いわば聖域、祈りの里だった。
まんだら塾 塾長 日原もとこ
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「太陽の峯の山『国軸山』として古来より~宇宙や自然と調和する~吉野大峰(後編)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2949412
日光金谷ホテル
歴史・文化・自然が共生する国際エコリゾート
世界遺産 日光東照宮
日光金谷ホテル滞在中のアクティビティとして東照宮を含む世界遺産「日光の社寺」は徒歩圏内。ウォーキングにおすすめの「日光古道」など、パワースポットも・・・
金谷ホテルの魅力
明治維新から間もない1873年(明治6年)に開業した「金谷カッテージ・イン」は20年後の1893年(明治26年)、現在地で本格的な西洋式ホテル「金谷ホテル」(現 日光金谷ホテル)として営業を開始しました。
明治から大正・昭和・平成へと時代は移り、新しい価値観が生まれる中、「金谷ホテル」は「創業の精神」を受け継ぎ、「現存する日本最古のリゾートホテル」としての伝統を守りながら今日に至っています。
この伝統を「日光金谷ホテル」「中禅寺金谷ホテル」二つのホテルで楽しめます。
日光金谷ホテルは現存する日本最古のリゾートホテルです。
外観は西洋風ながら、館内には日本風の調度品や建築様式が随所に取り込まれていることもあり、訪れるものを不思議と懐かしい優しい気分にさせてくれます。
中禅寺金谷ホテルは昭和15年開業(当時は日光観光ホテル)、中禅寺湖畔の森の中にたたずむリゾートホテルです。
平成4年、現在のログハウス風の様式に改築をされました。金谷ホテル伝統のフランス料理はもちろん、1,200年以上の歴史を持つ、湯元温泉から引き湯した天然温泉を楽しめます。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-5 TOKIO 2020 ~日本最古のリゾートホテル~「歴史・文化・自然が共生する国際エコリゾート」へ進展
https://tokyo2020-5.themedia.jp/posts/11525061
戦国武将が愛した「戦国飯」を再現
三英傑 左から織田信長 豊臣秀吉 徳川家康 ⒸWikipedia
KITCHEN MANEは自然を尊ぶ日本古来の“食”の習わしを大切に、お客様とともに日本文化を紡ぎ、“食”を通じて社会課題の解決を目指すサステナブルレストランです。
今回焦点をあてるのは「戦国時代」。
徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、山内一豊が好んで食べたといわれる全7品を通して、
当時の暮らしを想像しながら戦国の歴史と食を楽しむことが出来るコースをご用意。
レストラン KITCHEN MANEから眺める横浜みなとみらい21の夜景をどうぞ・・・
KITCHEN MANEについて
歴史が色濃く残る街 横浜・馬車道
横浜港開港を機に新生日本の象徴となった横浜には
国内外から多くの人々が集まり
外国人を乗せた馬車が行き交ったことからその名がついたこの場所は
日本人が大切にしてきた文化を継承しながら新たな文化発祥の地となりました
四季折々の自然のめぐみを大切に
感謝の気持ちと共に、暮らしの中で昔から受け継がれてきた日本の食文化である 「和食」
横浜港開港から150余年
いくつもの時代の移り変わりを見つめたこの場所で
自然を尊ぶ日本人の気質に基づいた”食”に関する習わしを大切に
旬の食材にとことんこだわり 素材本来の味を生かす技法で作られるお料理と
お客様のリクエストに笑顔でお応えするサービスで
お客様と共に日本文化を紡いでいくレストランです
0コメント