通常非公開・京都「霊鑑寺」秋の特別拝観 11月20日(水)~12月1日(日)
代々皇女が住職をつとめた格式と清楚な佇まいを今に伝える尼門跡寺院「霊鑑寺」は、
秋の特別拝観を2024年11月20日(水)~12月1日(日)開催いたします。
本年は、雪舟・円山応挙・狩野探幽を含む狩野派の掛け軸を一挙初公開します。
(主催:霊鑑寺、企画運営:京都コネクト株式会社)
書院 上段の間
書院 襖絵
庭園
狩野故法眼「虎図」※
※掛け軸収納箱に「狩野故法眼」と記載あり
雪舟「蘆雁図」「福録寿」(三幅一対)
■特別拝観概要
拝観期間 : 2024(令和6)年11月20日(水)~12月1日(日)
拝観時間 : 10:00~16:30(最終入場 16:00)
拝観箇所 : 庭園・書院・本堂・蔵
拝観料 : 拝観料 大人 800円 小学生 400円(幼児 無料)
団体15名以上 大人720円 小学生400円
特別展料金 別途500円
■特別拝観の見どころ
本年は庭園内の蔵において、雪舟・円山応挙・狩野探幽を含む狩野派の掛け軸を一挙初公開いたします。天皇から寄贈された掛け軸など霊鑑寺が所有する数々の絵画約20点を間近でご覧いただけます。
また、映画の撮影場所としても使用された書院は、後西(ごさい)天皇の院御所から移築したもの。書院内には「四季花鳥図」など狩野派の作と伝わる華麗な障壁画や保存状態の良い襖絵、御所人形、貝あわせなど皇室ゆかりの寺宝が多いのも見どころです。
また江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進した本堂も公開。本堂内には如意輪観音像が安置されています。(※本堂の中に上がることはできません。)庭園を散策する途中には、そびえたつ「霊鑑寺楓」が拝観者を出迎え、春とはまた違った景色を見せてくれます。また秋の特別御朱印も授与いたします。
本堂
庭園
庭園
山門
狩野探幽「山水図」
■寺院概要
名称 :霊鑑寺門跡
所在地 :〒606-8422 京都市左京区鹿ヶ谷御所ノ段町12
宗派 :臨済宗南禅寺派
アクセス :「京都駅前」や京阪本線「三条」駅から
市バス5系統「真如堂前」「錦林車庫前」下車、徒歩約7分
市バス32系統「上宮ノ前町」下車、徒歩約5分
地下鉄東西線「蹴上駅」下車、徒歩約25分
自家用車や大型バスの駐車場はございません。
(貸切タクシーのみ駐車可)
拝観所要時間:通常拝観約40分
通常非公開・京都「霊鑑寺」秋の特別拝観 お待ちいたしております
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
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アーカイブ リンク記事をご覧ください。
日本の宝 『長沢芦雪・丸山応挙』
南紀串本 日本で一番小さい美術館 錦江山無量寺にて
無量寺境内 全景
南紀串本「無量寺」近隣
錦江山無量寺は、本土最南端の地である和歌山県東牟婁郡串本町に在る、虎関禅師の開山による臨済宗東福寺派の別格寺院である。
無量寺 長沢芦雪 虎ふすま絵
長沢芦雪について
江戸時代中期に活躍した絵師であり、円山応挙の高弟。
1754年(宝暦4年)京都・篠山に丹波篠山青山下野守家臣、上杉彦右衛門の子として生まれました。 応挙のもとにいつ頃入門したかは定かではありませんが、数多き応挙の子弟の多くは町人である中、武士の芦雪は異色の弟子でした。
師応挙の高度な作風を完璧に身につける卓越した描写力に加え、奇抜な着想と大胆な構図、奔放で独特な画風を創出した芦雪は「奇想の画家」ともいわれています。また、画風と同じくその性格は、酒好きで奔放、快活である一方、傲慢な面があったと伝えられています。
それ故か、同時期に同じ京都で活躍した高名な絵師と較べその履歴は少なく不明瞭の中、芦雪については「破門説」をはじめ、さまざまな巷説や逸話、噂、憶測で彩られています。絵画のみならず人物そのものにおいても人を魅了する「奇才」といわれる力が備わっていたのだと思われます。
一般には応挙に入門してから長沢芦雪と名乗られたようです。この芦雪という号は、
「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとった考えられています。
芦雪と号してからは「魚」印を用いており、氷型の枠に入った「魚」字大印は芦雪のシンボルマークともいえる代表的な印章です。この印章についてはこのような説があります。
応挙の元、修業中のある冬の朝、芦雪は寒さで張られた氷の中に閉じ込められている魚を見かけます。その帰り道、氷が溶け先の魚が自由に泳いでいる姿に目を奪われます。その話を応挙にしたところ、「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである。」と諭されて以来、この印章を生涯使い続けたといわれています。
この印は、芦雪40歳を迎える頃の作品からは右肩部分を欠失していますが、果たして自由を得たとの意味合いがあるのでしょうか。
芦雪は、29歳の頃、天明2年(1782年)版「平安人物誌」画家部に名を載せ、絵師として名を成し始めます。また、この頃より多くの禅僧との交際が始まったと考えられます。
1786年(天明6年)、応挙と古く親交のあった愚海和尚が、若き頃に応挙と交わした
「蓋し愚海若かりし頃芦雪の師円山応挙と親交あり、或る日応挙和尚に向いひて曰へるやう、師若し他日一寺を建立するあらば、余は必ず寺のために揮毫を惜まざるべし」との約束をもとに無量寺再建成就の際、本堂の襖絵の依頼のため応挙を訪ねます。
応挙は祝いに『波上群仙図』や『山水図』等、障壁画12面を描きましたが、多忙な上に年齢的なこともあったため、弟子芦雪に障壁画を託し、名代として京から南紀に向かわせます。それは芦雪33歳の頃、兄弟子たちを飛び越えた異例の抜擢でもありました。
愚海和尚に同道し南紀に下った芦雪は、自らも本堂のために襖絵を描き数々の力作を残します。師の応挙や寒い京から遠く離れ、雄大な自然を有する温暖な串本で芦雪はまるで解き放たれたように一気にその才能を開花させました。
激変した新たなる画風からは、時には応挙さえも越えんとする才能が溢れ出、当院所蔵である芦雪の代表作でもある『虎図』『龍図』など多くの逸作からその奇才の様が伺えます。
無量寺滞在中も酒好きで奔放な芦雪は、襖絵にとりかかることなく随分と酒を楽しんでいたかと思うと、一気に筆を走らせ大作を描いたという奇才ぶりが伝えられています。約十ヶ月間の南紀滞在中に270点余りもの絵を描き、この頃は芦雪の人生の絶頂の期とも云われ、無量寺の他に、古座の成就寺、富田の草堂寺、田辺の高山寺、他個人のために数多く作品を残している。
芦雪の画風は概して快活で明るいのが特徴ですが、晩年の頃からは時折、『山姥』のような作品からも見受けられる陰惨なグロテスクへの傾倒が印象付けられており、晩年期においての芦雪の心境の変化についてさまざまな憶測が拡げられています。
1799年(寛政11年)、芦雪46歳で大阪において客死します。一説には周囲の嫉妬や憎しみによる毒殺であったとも、自殺であったともいわれる芦雪の死は謎に包まれ、死についてまでも異常であったと逸話が残されている。
無量寺 丸山応挙 鶴
円山応挙について
円山 応挙は、江戸時代中期に活躍した代表的な絵師で円山派の祖であり、同時に近代日本画の祖、写生画の祖ともいわれる存在である。
1733年(享保18年)、丹波国桑田郡穴太村(現京都府亀岡市)の農家の次男として生まれ、幼年から地元の寺、金剛寺に預けられ小僧として生活をしていました。その頃から絵を好んだといわれている。
同寺の住職が亡き後、応挙15歳で上洛し玩具商「尾張屋」に奉公します。尾張屋での仕事の内容は人形制作や彩色、眼鏡絵などを描くことであり、この頃に多く技術を身につけ、後に絵師として確立するに基点となる要因になりました。
応挙の画才を見いだした尾張屋の中島勘兵衛の計らいにより、1749年、応挙17歳の頃から狩野派の絵師、石田幽汀に入門し狩野派様式や花鳥画などを学びます。また、当時流行した眼鏡絵の制作に携わったことにより、西欧の遠近法の基礎を身につけたともいわれています。
その後自然の写生に専念し、従来の日本画にはなかった遠近法などを取り入れた写生画を創出していく。応挙は常に写生帖を携え、対象への観察として暇さえあれば余念なくスケッチを行っていたようで、画帖には多くの植物、蝶や昆虫などが残されている。
1765年に手がけた『雪松図』で応挙独自の写生画様式を確立させ、翌1766年から『応挙』と改名。同時期に円満院門主祐常との関係がはじまり、寵恩を得ながら絵師として技術をさらに昇華させ次々と作品を手がけていき、その卓越した画風はさまざまな階層の人々より傑出した人気を博しました。
1786年(天明6年)54歳の時、兼ねてより親交のあった愚海和尚が入院した串本無量寺の再建成就の祝いに『波上群仙図』や『山水図』等障壁画12面を描き、弟子芦雪を名代として京から南紀に向かわせました。
その後も、絵師として多大な成功を収め、寛政7年63歳で没するまで精力的に障壁画や屏風等の大画面作品を描き続けました。
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