令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
舞妓 秀芙美さん
京都に息づく伝統の花街文化の素晴らしさを国内外に発信している
京都文化NFT合同会社は、祇園祭り宵々山の2024年7月15日(月・祝)に「舞妓さんとジャズナイト」を開催いたします。
舞妓さんとジャズナイト
江戸時代の流行歌「端唄」や明治時代の流行歌「小唄」を、今宵のためにジャズアレンジした「祇園小唄」などの曲を、ボーカル、ピアノ、サックス、琴で構成されるジャズバンドが演奏・歌唱し舞妓さんに舞っていただきます。
海外の方々にも、日本の古典芸能を楽しんでいただきます。
●京都を取り巻く社会課題
・伝統文化継承のための重要な担い手が不足
祇園甲部を含めた京都五花街では、芸妓さんや舞妓さんの数が減少しています。
2019年4月:芸妓さん175人、舞妓さん79人
2024年4月:芸妓さん155人、舞妓さん56人
このように、重要な担い手が大きく減っています。
・夜のエンターテインメントが少ない
・舞妓さんやアーティストとの交流の機会が少ない
●概要
【祇園祭り宵々山】7月15日(月・祝)舞妓さんの舞とジャズナイト
【ハイライト】
・伝統文化とジャズのコラボ
・箏でジャズの演奏
・舞妓さんやアーティストと交流
・ジャズの生演奏を愉しむ
・五感で愉しむ和食
●初お披露目のイベント
ニューヨークで20年以上の演奏経験を持つジャズシンガー、Songbird TAeKO(深尾多恵子)さんにご出演いただきます。
ジャズシンガー、Songbird TAeKO(深尾多恵子)さん
伝統文化とジャズのコラボレーションとして、箏を使ったジャズ演奏が行われます。
TAeKOさん率いるジャズバンドの演奏に合わせて、舞妓さんが舞を披露します。舞妓さんの舞をご覧いただきながら、五感で愉しむ和食の会席料理もお楽しみください。アルコールが苦手な方も大歓迎です。お食事中には、各テーブルに舞妓さんやジャズバンドのメンバーが回り、2ショット撮影や団欒のひとときを楽しんでいただけます。
ジャズの生演奏を愉しみながら、舞妓さんやアーティストとの交流もお楽しみいただける、特別なひとときをお届けします。
主催 :京都文化NFT合同会社
会場 :百千足館「能舞台」(京都市中京区新町通り錦小路上ル百足屋町380)
舞 :舞妓 秀芙美さん(先斗町)
演奏 :TRIO HIGHWIRE(トリオ・ハイワイヤ)
Songbird TAeKO - Vocal, Koto
栗田洋輔 - Sax
祖田修 - Piano
参加費:お一人 27,500円(税込)
秀芙美さんの千社札を1枚プレゼント。
さらに、浴衣や着物で参加された方には、
「舞妓さんトレカ」(非売品)を1パックプレゼント。
演奏:TRIO HIGHWIRE(トリオ・ハイワイヤ)
【タイムスケジュール】
17:00 開場
17:30~ オープニングセッション
箏を中心に京風スタイルでジャズ演奏
ボーカル、ピアノ、サックス、琴で構成されるジャズバンドが
演奏・歌唱し舞妓さんに舞っていただきます。
18:15~ お食事提供
舞妓さんなどアーティストと交流、2ショット撮影
舞妓さんとじゃんけん大会(賞品あり)
20:00~ ジャズ演奏
最新のNYスタイルジャズ演奏
20:45 演奏終了
会場の能舞台:箏の前で舞妓さんが舞います
●お申込み
・クラウドファンディングでお申込みの場合は、特別に25,000円(税込)とお得になります。
https://camp-fire.jp/projects/view/714378
補足~京都寺院ご紹介
高野山京都別院 『蔵林寺』
高野山京都別院の山門
高野山の京都別院は初見。上京区葭屋町通丸太町を北に入った住宅街の中にあるが、昭和10年代に蔵林寺を買い取り別院にしたという。本尊は虚空蔵菩薩で左右に不動明王と六神明王(6体の仏が一つに合体した珍しい仏像)を、厨子には大聖歓喜天を祀る。高野山の観光案内の資料もある。
住所〒602-8147京都府京都市上京区葭屋町通丸太町上る直家町217 電話:075-841-5184
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください
八坂神社と祇園祭
八坂神社について
八坂神社~青龍~
平安京は、陰陽道による四神相応の地で、青龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)玄武(北)の神々に守られた土地。大地のエネルギー「気」を龍に見立て、「気」の集結する場が龍穴とされていて、青龍が守る東山に祀られた八坂神社の本殿下には、その龍穴があると伝えられる。
八坂神社の歴史
八坂神社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。
天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
八坂神社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
伊利之来朝のこと、また素戔嗚尊が御子の五十猛神とともに新羅国の曽尸茂梨(そしもり)に降られたことは、ともに『日本書紀』に記されており、『新撰姓氏録』の「山城国諸蕃」の項には渡来人「八坂造(やさかのみやつこ)」について、その祖を「狛国人、之留川麻之意利佐(しるつまのおりさ)」と記してある。
この「意利佐」と先に記した「伊利之」は同一人物と考えられている。伊利之の子孫は代々八坂造となるとともに、日置造(へきのみやつこ)・鳥井宿祢(とりいのすくね)・栄井宿祢(さかいのすくね)・吉井宿祢(よしいのすくね)・和造(やまとのみやつこ)・日置倉人(へきのくらびと)などとして近畿地方に繁栄した。
天長6年(829)紀百継(きのももつぐ)は、山城国愛宕郡八坂郷丘一処を賜り、神の祭祀の地とした。これが感神院の始まりともされている。そして、八坂造の娘を妻とし、男子のなかった八坂造家の職を継承したといわれ、その後裔である行円(ぎょうえん)は、永保元年(1074)に感神院執行となり、以後子孫代々その職を継ぎ、明治維新による世襲制の廃止まで続いた。
祇園祭 山鉾
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「~四神相応の京~ 八坂神社と古都の町並み(その壱)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3981294
八坂神社(祇園社)の始まり
八坂神社は慶応4年(1868)5月30日付の神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。創祀については諸説あるが、斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した使節の伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山に座した素戔嗚尊を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。
また、一説には貞観18年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
疫神社夏越祭
蘇民将来を祭る「疫神社」の鳥居に大茅輪を設け、参拝者はこれをくぐって厄気を祓い、 又「蘇民将来之子孫也」の護符を授かります。
疫神社前「疫神社夏越祭」
豪壮かつ華麗な祇園祭は、千百年の伝統を有する八坂神社の祭礼です。
古くは、祇園御霊会(ごりょうえ)と呼ばれ、貞観11年(869)に京の都をはじめ日本各地に疫病が流行したとき、平安京の広大な庭園であった神泉苑に、当時の国の数66ヶ国にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、さらに神輿を送って、災厄の除去を祈ったことにはじまります。
祇園祭は、7月1日の「吉符入」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祭」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。
蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)
八坂神社御祭神、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)が南海に旅をされた時、一夜の宿を請うたスサノヲノミコトを、蘇民将来は粟で作った食事で厚くもてなしました。蘇民将来の真心を喜ばれたスサノヲノミコトは、疫病流行の際「蘇民将来子孫也」と記した護符を持つ者は、疫病より免れしめると約束されました。 その故事にちなみ、祇園祭では、「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて祭りに奉仕します。
また7月31日には、蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祭」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与いたします。
このお祭をもって一ヶ月間の祇園祭も幕を閉じます。
祇園祭 石段下を埋め尽くすように集まった担ぎ手たちが気勢を上げて3基のみこしを運ぶ
祇園祭の由来
祇園祭は貞観年中(859~877)京の都に疫病が流行したとき、勅を奉じて神泉苑に66本の鉾を立てて祇園の神を迎えて祭り、洛中の男児が祇園社の神輿を神泉苑に送って厄災の除去を祈ったのに由来し、平安時代の中頃からは規模も大きくなり、空車、田楽、猿楽等も加わって盛んな賑わいを見せてきました。
室町時代になると町々の特色ある山鉾のあったことが『祇園社記』に記されています。
応仁の乱(1467)で都は灰燼に帰し、祇園祭も中絶しましたが、明応9年(1500)には復活、その時より山鉾巡行の順位を決める鬮取式が侍所で行われることになりました。以後、町衆の努力により山鉾の装飾にも贅を尽くすようになり、近世には度々の火災で多数の山鉾が消失しましたが、その都度、町衆の心意気によって再興し、今日に至っています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「八坂神社の祇園祭は平安66ヶ国にちなみ66本の鉾を立て、祇園の神を祀り、神輿を送って災厄の除去を祈ったことに始まる(その弐)」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/3997331
七尾祇園祭は【京都の祇園祭】に由来
七尾大地神社
七尾市中心部にある大地主(おおとこぬし)神社(山王神社)の夏祭り「七尾祇園祭」は、疫病厄除けを願う祇園信仰が盛んだった平安時代、この地に京都祇園社の祭神を勧請し祇園会を行ったことが始まりだと伝えられています。祭神・牛頭天王(ごずてんのう)が納涼のため浜辺の仮宮に遷座することから「おすずみ祭」とも呼ばれています。
港町の仮宮前広場では松明のもとで奉燈が乱舞する
疾走する奉灯を見事に統率
祭りのクライマックスは夜。夕方、町内を巡行した奉燈は、花火を合図に、浜辺の仮宮に集まります。
御祓いのあと、くじで決まった1番の町から神輿を先導して大地主神社へ。境内に勢ぞろいした11基の奉燈には笛、鉦、太鼓の囃子衆が乗り込み、50人余りの若衆が担ぎ出します。赤々と燃え上がるかがり火の周囲を競い合うように奉燈が疾駆。時には息をぐっと止めて見入るほどに凄まじい勢いで乱舞します。奉燈の運行は太鼓に合わせて赤襷(たすき)の指導者が疾走、徐行、停止の合図を出し、その見事な統率ぶりも見どころのひとつです。
鳴り響くお囃子とゆらゆら動く灯りの競演のうちに夜は更け、くじで最後になった町が七尾に古くから伝わる祝儀唄「七尾まだら」を披露して祭りを締めくくります。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「七尾祇園祭は【京都の祇園祭】に由来、東のお涼み かがり火と奉燈の饗宴」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2609701
『明和町』大淀祇園祭~山車と花火の競演
三重県明和町の「大淀祇園祭と花火大会」
伝統行事、大淀祇園祭と花火大会が開催されます。
この祭りは江戸時代から、約260年にわたり受け継がれている伝統行事で 無病息災と農・漁業の発展を祈念し、毎年旧暦6月14日に近い土曜日に行われています。
大淀祇園祭「海上渡御」の様子
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG-3 TOKIO 2020「『明和町』大淀祇園祭~山車と花火の競演~7月20日(土)開催!」
https://tokyo2020-3.themedia.jp/posts/6362347
長崎丸山【長崎検番】
長崎の街に芸妓衆(げいこし)が現れるようになったのは、江戸時代中期ころとされています。当時、丸山の遊女がそのような役割を担っていたところ、大阪から訪ねてきた旅芸妓に刺激を受け、座敷に出て琴を奏でたり、三味線を弾いたりしながら座を助ける女性が現れるようになり、長崎花柳界の基礎が築かれました。
明治時代になり、芸妓衆は検番組織を確立するようになりました。芸妓を抱える置屋と料理屋の中間に立って、双方の調整を図る役割を務めてきました。
昭和初期には、検番組織も最盛期を迎え、長崎丸山には丸山東検番、丸山南検番が、市街地には長崎町検番、稲佐、出雲町、戸町が存在し、数百名もの芸妓が在籍するようになりました。
特に代表的であったのは、丸山東検番と長崎町検番で、それぞれ切磋琢磨して技を磨き、芸を競い合い、数々の名妓が生まれてきました。
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