令和6年1月1日午後4時10分頃発生した、能登半島地震で被害を受けた皆さまに、
心よりお見舞い申し上げます。(編集局)
泉屋博古館東京(東京都港区六本木1丁目5番地1号)は、
「企画展 歌と物語の絵 ―雅やかなやまと絵の世界」を
2024年6月1日(土)より7月21日(日)まで開催いたしております。
《竹取物語絵巻》(部分)江戸・17世紀 泉屋博古館
本展では、住友コレクションから桃山・江戸時代前期の「やまと絵」を一挙公開します。「竹取物語」「源氏物語」「伊勢物語」など、現代に読み継がれる和歌や古典文学を素材とした絵巻や屏風をご紹介し、物語と絵画との関係性に迫ります。
宮廷や社寺の一級の絵師が貴人の美意識に寄り添い追求した物語絵、歌絵のさまざまな様式、表現を鑑賞できます。文化財用高精細スキャナーで撮影した物語絵屏風の拡大画像の展示にも注目です。
《源氏物語図屏風》(左隻)江戸・17世紀 泉屋博古館
《源氏物語図屏風》(右隻)江戸・17世紀 泉屋博古館
《伊勢物語図屏風》(左隻) 江戸・17世紀 泉屋博古館
《伊勢物語図屏風》(右隻) 江戸・17世紀 泉屋博古館
《平家物語・大原御幸図屏風》桃山・16世紀 泉屋博古館
展覧会概要
古来、語り読み継がれてきた物語は、古くから絵巻物など絵画と深い関係にありました。和歌もまた、三十一文字の世界が絵画化されたり、絵から受けた感興から歌が詠まれたりと、絵画との相互の刺激から表現が高められてきました。
物語絵や歌絵の特徴のひとつは、精細な描写と典雅な色彩。宮廷や社寺の一級の絵師が貴人の美意識に寄り添い追求した「やまと絵」の様式を継承することでしょう。そしてストーリーに流れる時間を表すかのような巻物、特別な場面を抽出してドラマティックに描き出す屏風など、長大な画面にさまざまな表現が生まれました。
古典文学は、後世の人々が自身に引き寄せて味わうことで、読み継がれ輝き続けてきました。それに基づく絵画もまた同様です。本展では、近世の人々の気分を映し出す物語絵と歌絵を、館蔵の住友コレクションから選りすぐってご紹介します。雅やかで華麗、時にちょっとユーモラスな世界をお楽しみ下さい。
また特集展示として、黒田清輝の没後100年を記念し、住友家須磨別邸とともに焼失した黒田の代表作《昔語り》について、下絵や画稿、そしてふたりの書簡から紹介します。
《是害房絵巻》(部分)南北朝・14世紀 重要文化財 泉屋博古館
《三十六歌仙書画帖》(書)伊勢 松花堂昭乗 江戸・元和2年(1616)泉屋博古館
前期展示:6/1-6/23
《三十六歌仙書画帖》伊勢 松花堂昭乗 江戸・元和2年(1616)泉屋博古館
前期展示:6/1-6/23
《三十六歌仙書画帖》(書)柿本人麻呂 松花堂昭乗 江戸・元和2年(1616)泉屋博古館
後期展示:6/25-7/21
《三十六歌仙書画帖》柿本人麻呂 松花堂昭乗 江戸・元和2年(1616)泉屋博古館
後期展示:6/25-7/21
《柳橋柴舟図屏風》(左隻)江戸・17世紀 泉屋博古館
《柳橋柴舟図屏風》(右隻)江戸・17世紀 泉屋博古館
《扇面散・農村風俗図屏風》(右隻)江戸・17世紀 泉屋博古館
見どころ
1. 住友コレクションのやまと絵を一挙公開。
当館が所蔵する住友家歴代収集の日本絵画には、繊細な描写と典雅な色彩を特徴とする絵巻・屏風の作品群が含まれます。それは、平安時代より培われてきたやまと絵の領域が一気にひろがった桃山から江戸時代前期(17世紀頃)のものです。かつて一部の貴人のためだったやまと絵は、より広い階層にむけて一段と親しみやすく視覚効果の高いものへ生まれ変わっていったのです。
2. 知っているようで知らない古典文学。江戸時代の親しみやすい絵画を通じて、一歩近づく。
江戸時代の人たちだって、みなが全編読破していたとも限りません。挿絵入りのダイジェストやパロディ本も人気がありました。屏風や掛軸には特に印象的な名場面が選ばれ、その時代ならではの好みや解釈も反映されています。それらに親しむうちに、いつのまにか文学の根底にある普遍的な人生の機微に引き寄せられていく――古典文学が読み継がれてきた理由はそのあたりにあるのでしょう。
3. 細部こそ見せ場!高精細画像で心情・風情に迫る。
絵巻は手元で、屏風は座敷で、ともに間近に鑑賞されたやまと絵は、細密な描写こそ本領ともいえるでしょう。
文化財用高精細スキャナーで撮影した3点の物語絵屏風の拡大画像を会場にご用意します。ガラス越しでは見つけにくい表情や仕草、四季折々の自然など、ひとたび目にすれば古典文学にぐっと近づけることでしょう。
展示構成
1. うたうたう絵
和歌とは、人の心に去来した感興を三十一文字のことばに託して表すものです。そこに欠かせないのが、日本の四季折々の自然や人々の営みでした。そして平安時代中頃、和歌の隆盛とともに広がったのが「歌絵」です。
それは歌の意味や内容からイメージされ、また詠まれた景物を素材として描かれたものです。反対に、描かれた景物に触発されて歌が詠まれることもありました。「歌から絵へ」「絵から歌へ」――無限の連鎖のなかから新たな芸術は生まれていったのです。
「掛詞」や「見立て」、「本歌取り」など、限られたことばを起点に鑑賞者の知識や想像の力も借りて最大限の表現にいたる技が和歌には満ちています。歌絵もまた、シンプルなモチーフ、機知に富む構図によって、古来の言語・造形の積層を紐解き自由にイメージを重ね広げる余地を観る者に与えています。ストイックで思わせぶりな象徴性こそ、歌絵のひとつの魅力なのです。
さて、いにしえの画家たちからの一投を受け、私たちはその絵に何を思い詠うでしょうか。
2. ものかたる絵
物語は元来、「語り」のことばどおり、音読を聞くことが中心だったといい、巻物などに描かれた絵を前にして「耳」と「目」で味わう楽しみが早い時期からありました。やがて、ことば、書、絵からなる総合芸術に昇華した絵巻物から、冊子、扇、掛物、屏風へと、「物語絵」は広がります。
とりわけ中世末から近世にかけての物語絵屏風は、大画面の特長を生かした装飾的で視覚効果の高い新たな世界を開きます。物語の各場面を一覧するものから、次第に場面数をしぼり、ひとつの場面を詳しくドラマティックに描く方向へと展開しました。
そこでは、場面選択や表現に当時の鑑賞者の好みや心情が映し出され、また新興の画派たちの創意が注ぎ込まれることとなります。観る側の想像の余地をのこした古代中世の引目鉤鼻から、表情豊かな個性的表現へ――それを可能にするのも、長く読み継がれる古典文学のもつ普遍性のなせるわざでしょう。
目を凝らして登場人物になった気分で物語の世界に没入するのも一興です。
《乾坤再明》原田西湖 明治36年(1903)泉屋博古館東京
前期展示:6/1-6/23
3. れきし画
明治時代には洋画・日本画を問わず、日本の歴史・神話・仏教主題・伝説を描く「歴史画」が流行しました。画家たちは歴史を正しくかつリアルに伝えるため、時代考証を究め、時に西洋画の写実技法を駆使して迫真的に描き出すことに腐心しました。
岡倉覚三(天心)が、「歴史画は国体思想の発達に随て益々振興すべきものなり」と奨励したように、歴史画は近代国家の形成において必要とされ、国家意識の高まりや西洋絵画における「歴史画」概念の輸入を受けて盛んに描かれるようになります。視覚的に国家の歴史を表す歴史画は、単なる歴史の記録にとどまらず、歴史意識の共有や国民の道徳心を養うために求められたのです。
大正以降の歴史画は、ナラティブ要素が希薄になる一方で、キャラクターが独り立ちして、普遍的なテーマの語り部として描かれるようになります。
作者の思想を絵画に盛り込むことが求められた近代絵画において、歴史画はそういった抽象概念を可視化する最も適した画題でした。もはやストーリーは置き去りに、作者の主張を仮託する乗り物と化した「物語絵」の向こうには、何が見えるでしょうか。
特集展示「没後100年記念 黒田清輝と住友」
日本近代洋画の発展に力を尽くした黒田清輝(1866~1924)は、フランス留学から帰国して間もなく、当地で親交を結んだ西園寺公望を通じて、住友家第15代当主・住友吉左衞門友純(1864~1926、号春翠)の知遇を得ました。
春翠は、明治28年(1895)に実兄である西園寺の仲介により、裸体画論争で槍玉にあげられた《朝妝》(焼失)を購入しました。その後も春翠は黒田に潤筆料を援助するなど、制作活動を支援しています。
その黒田は明治26年(1893)に初めて京都を訪れ、『平家物語』の悲恋で知られる清閑寺を訪ねています。黒田は同寺の由来である高倉天皇と小督の物語を聞いた際に、昔がよみがえってくるような不思議な体験をしたと後年回想しています。
この時の体験をもとに着想した《昔語り》(焼失)は、フランスで学んだ本格的な構想画を日本へと持ち込もうとした意欲作でした。本作は、須磨海岸に建てられた住友家の別邸に長らく飾られていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。
黒田清輝の没後100年を迎えるこの機会に、須磨別邸とともに焼失した黒田の代表作《昔語り》をその下絵や画稿から紹介し、ふたりの交流を書簡から辿ります。
館外観
第1展示室~第4展示室まであります
ホール
講堂
ミュージアムショップ
HARIO CAFE 外観
開催概要
会期
2024年6月1日(土)〜2024年7月21日(日)
会場 泉屋博古館東京
住所 106-0032 東京都港区六本木1丁目5番地1号
時間
11:00〜18:00
※金曜日は19:00まで開館 ※入館は閉館の30分前まで
休館日
月曜日、7月16日(火)※7月15日(月・祝)は開館
入館料
一般1,000円(800円)、高大生600円(500円)、中学生以下無料
※20名様以上の団体は( )内の割引料金
※障がい者手帳等ご呈示の方はご本人および同伴者1名まで無料
TEL 050-5541-8600(ハローダイヤル)
主催 公益財団法人泉屋博古館、日本経済新聞社
京都 裏千家 両端が友人ご夫妻、奥様の右はスペイン・マドリードの建築設計者、
更に右がドイツのインテリアデザイナー @鎹八咫烏
想い出
昭和50年代~60年代にかけ幾度かドイツを訪ねたことが有ります。ケルンで知り合った
インテリアデザイナーKさん「来年、恩師がデザインしたデザインセンターが池袋に出来るので、そこで仕事をすることになりました。」とのことで、日本での再会を誓ったのでした。
翌年、電話があり職場で知り合ったスペインの建築設計に携わっている方と一緒に3泊4日で京都を旅したいから案内をお願いしたいとの事、早速、鎹八咫烏唯一の得意技、ネットワークを駆使して京都在住の友人ご夫婦と連絡を取り「スケジュールはこちらで考えるので、宿の手配を依頼したところ、日欧親善の折角の機会なので自家用車で案内いたしましょうとお申し出いただき、お仕事を休業してボランティアにて、ドイツ・スペイン・日本の珍道中に参戦いただいたのでした。
お国柄か⁉それとも世代格差⁈ドイツのインテリアデザイナーK氏は伝統的なものを、スペインの建築設計者A氏はアバンギャルドなものをとの要望で、日本最古の木材新聞「日本林業経済新聞社」橋爪編集長の知恵もお借りして、日本人も行ってみたいと思うようなところがよいであろうということになり、京都御所、神社仏閣、裏千家、桂離宮、修学院離宮、伝統建築の町並み、和と洋を融合した店舗・町屋のアバンギャルドな空間・・・
そして、旧住友本家と東山を借景に作庭した庭園、向え側に創られた「泉屋博古館」。
そうそうお別れ会は、ご夫妻がご用意いただいた祇園のベンガラ壁の料亭でした。
まだその時の恩返しができていません…必ずいつか(あれから45年以上たつけんど・・・)
京都 旧住友本家 邸宅 @泉屋博古館
幸いにも、当時の館長が英語、ドイツ語、スペイン語に堪能な方で詳しく丁寧にご説明戴きました。「国賓クラスのお客様がお越しになられるので失礼のないようにとの心遣いを」との事でした。小生はそれを聴き、人一倍大きな身体を小さくして拝見したものでした。
鎹八咫烏 記
石川県 いしかわ観光特使
伊勢「斎宮」明和町観光大使
協力(敬称略)
紅山子(こうざんし)
※画像並びに図表等は著作権の問題から、ダウンロード等は必ず許可を必要と致します。
アーカイブ リンク記事をご覧ください
博物館に初もうで 東京国立博物館
重要文化財 五龍図巻 (部分)
重要文化財 五龍図巻 (部分)
伝陳容筆 中国 南宋時代・13世紀 東京国立博物館蔵
展示期間:1月2日(火)~28日(日) 本館 特別1室
作品詳細:黒雲のなかに、5匹の龍がからみつきながら姿を現し、また雲気(うんき)のなかに隠れていく様子が描かれています。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
~和太鼓演奏、獅子舞など新春限定の企画も満載~
ZIPANG-7 TOKIO 2020毎年恒例!「博物館に初もうで」東京国立博物館で 2024年の干支“辰”をテーマにした展示を1月2日より開催
https://tokyo2020-7.themedia.jp/posts/49763665
岡倉天心が愛した『五浦六角堂』
北茨城市五浦海岸 六角堂
北茨城市の五浦海岸の岸壁すれすれにに建つ「六角堂」は岡倉天心が自ら設計しました。
天心は、岩に打ち付け砕け散る波を眺め、思索に耽ったのであろうか・・・
茨城土地家屋調査士会 制度制定70周年記念事業で、 五浦六角堂の三次元点群データを茨城大学に寄贈 ~2022年11月14日授与式を実施~
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
岡倉天心が愛した『五浦六角堂』
ZIPANG-6 TOKIO 2020茨城土地家屋調査士会 制度制定70周年記念事業で、岡倉天心 「五浦六角堂」三次元点群データを茨城大学に寄贈!
https://tokyo2020-6.themedia.jp/posts/38976266
紫式部と創建は約2000年前、近江最古の大社『白髭神社』
月光と白髭神社 湖中の大鳥居
白髭神社 天空からの眺め
昔はよくこの街道を通り小浜から敦賀へ、また今津・マキノをを抜け湖北の桜トンネルを潜り敦賀・今庄を横目に芦原温泉・加賀温泉へ一直線に出掛けた。昭和よ戻れ、無理無理!
白髭神社 琵琶湖からの眺め
御 祭 神・御 神 徳について
御 祭 神 猿田彦命(猿田彦大神) 御神紋 左三つ巴
御 社 名 白鬚神社 別社名 白鬚大明神・比良明神
御 神 徳
古事記によると、猿田彦神は「天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は芦原中津国を光す神」だと見えている。高天原からこの国土に降る道の途中に、四方八方に分岐する道があり、猿田彦神はそこに居られて道を守り、道を教えた神様である。
このことは天孫の降臨について、天孫の一行にその行く手を教え導かれた功績を褒め称えたものである。これは大にしては国の行く手を示す神であり、小にしては道の守り神として悪いものを防ぎ、よき方への導きの神であったことを示したものと言えよう。
古事記には更に、この神の出自をいって「吾は国つ神」とあり、この国土にあって国民のための導きの神であったことを知らしめる。その導きの神徳は「御前に仕へ奉らむとて参向に侍らふ」ともある。
天孫を始め、延いては多くの人々の前に立ち、人の世のすべての業や営みを善い方に誘導されたことは、私どもはこの神を信じ奉ずることによって、常にこの神が自分の前に立って善き方に導いて下さることを知らしめるものである。
日本書紀によると、この神は強い力の持ち主で威風堂々たる容姿の持ち主であったようだ。 「その鼻の長さ七咫、背の長さ七尺余、また口尻明りて耀れり、眼は八咫鏡の如くにして耀輝けること、赤酸醤(ホウズキ)に似たり」とある。らんらんたる眼を持った偉丈夫の姿を彷彿とさせる大神である。
そしてその威力はこの神に「目勝つ神」はなかったとあるように、その眼力が窺えるのである。この神が岐れ路道におられて睨みを聴かせているのだから、悪いものは近寄ることさえできない。
紫式部の若き日を偲んで、白鬚神社の境内に歌碑が建立されています。
「三尾の海に 網引く民のてまもなく 立居につけて 都恋しも」
この歌は「源氏物語」の作者紫式部が、この地を通ったときに詠んだものです。
平安時代の長徳2年(996年)越前の国司となった父藤原為時から船路にて湖西を通り越前に向かいました。途中、高島の三尾崎の浜辺で、漁をする人々の網を引く見なれぬ光景に、都の生活を恋しく思い出して詠んだのがこの歌です。
白髭神社湖中の大鳥居近くにて漁をする人々、現在も伝統的な漁法は健在です。
きっと紫式部はこんな光景を見たのかも・・・
因みに日本書紀によると素戔嗚尊(スサノオノミコト)は船材は杉・楠、建築材は檜、棺材は高野槇を使いなさいと賜っておられますが、琵琶湖の木造船や長良川鵜飼舟には、高野槇が使われております。
(古代、高野槇は土葬のための棺桶として使用。古墳を掘り起こすと現在でも腐らずに出てきます。大変に腐りに強い樹種です。
木の浴槽にもモッテコイです。
但し丸風呂は昔から加工しやすく腐りにも強いので、椹(さわら)が使用されております。
香りですか?菖蒲湯に浸かった時のような良い香りがします。(桧に比べコストは低い!)
ちょっと脱線してしまい失礼いたしました😌 ついでに、エェ…まだ続くんですか⁉
(高野槇は、節ありを選べば更に廉い。桧に比べ死節が少ないので好都合。見た目?失礼ながら素人さんには桧と見分けられない位、高野槇は腐食に強い良さがある)東北で使用されるには青森ヒバ(木曾五木で言えば明日桧)別称 あすなろ.。
その土地で産する木を使用するのが一番(土地の気候風土に適して育っている。)
木曾檜だけは北で分布する木の南限にあたり、南で分布する木の北限になるので両方の性質を持っており全国どの地域で使用しても狂い等が少ない木であります。それだけに高価!
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「創建は約2000年前、近江最古の大社『白髭神社』湖中の大鳥居 伝説」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/2786158/
三重県明和町「斎宮」 斎王まつり
斉宮の主・斎王
古代から中世にわたり、天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えた「斎王」は、皇女として生まれながら、都から離れた伊勢の地で、人と神との架け橋として、国の平安と繁栄を願い、神への祈りを捧げる日々を送った。 斎王の宮殿である斎宮は、伊勢神宮領の入口に位置し、都さながらの雅な暮らしが営まれていたと言われている。地元の人々によって神聖な土地として守り続けられてきた斎宮跡一帯は、日本で斎宮が存在した唯一の場所として、皇女の祈りの精神を今日に伝えている。
(詳細は下記のURLよりご覧ください。)
ZIPANG TOKIO 2020「天皇の御名代 斎王 第36回 斎王まつり ~斎王群行は古代伊勢道を通り斎宮へ~【日本遺産】」
https://tokyo2020-summer.themedia.jp/posts/4268881
「式年遷宮」木曾にて
「式年遷宮」伊勢 五十鈴川にて 伊勢神宮御木曳(川曳)
伊勢神宮内宮 正宮
神宮備林の時代
明治22年(1889年)、それまで官林だった木曽の森林は「御料林」に編入し、宮内省御料局が管理経営していました。御料局の木曽支庁は明治36年(1903年)に木曽福島に設置されました。
昭和22年(1947年)に国有林に変わると、長野営林局の庁舎として使用され、その後、福島営林署、長野営林局森林技術センター、中部森林管理局の森林技術第一センターとして使用され、平成16年(2004年)に庁舎としての歴史に幕を閉じました。 旧帝室林野局木曾支局庁舎は、現在、御料館として当時の林野行政の資料等が展示されています。
そして明治39年(1906年)、木曽谷の御料林の中に、「神宮備林」が設けられました。伊勢神宮では、20年毎に神宮の建物や調度品を造りかえ、新しく清浄な神殿に神様のお遷りを願う「式年遷宮」を行います。式年遷宮は690年から行われおり、鎌倉時代までは神宮の山から御用材を伐り出していましたが、良材が枯渇したため、江戸時代からは木曽谷から御用材を伐り出されるようになりました。
神宮備林は、20年ごとに行われる伊勢神宮の造営のため木曽ヒノキの供給を目的としており、木曽ヒノキの成長を助け、ヒノキ稚樹を発生させるために、当時は木曽ヒノキ以外の木を中心に抜き切りをしていました。
この当時、直径60cm以上で形質優良な木曽ヒノキを「大樹」として台帳に載せ管理しており、大樹は木曽谷全体では18,000本が選ばれ、赤沢自然休養林周辺では2,690本が指定されました。
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